桜桃沈輪
〜玉垂宮鬼夜の由来〜
福岡県久留米市(大善寺町)
07年初頭の鬼夜
大善寺町の玉垂宮は、1600年以上もむかしに創建されたそうな。神社の最大の呼び物は、正月7日深夜に行われる「鬼夜会」だ。那智・鞍馬と並ぶ日本三大火祭りに数えられるほどのもの。国指定の無形民族文化財にも指定されている。
直径1メートル、長さ13メートル、重さ1トンもある大松明が6本、境内を駆け回る姿は勇壮としか言いようがない。
鬼退治に朝廷が乗り出した
1600年前、筑紫国では桜桃沈輪という男が暴力で国を奪おうと暴れまわっていた。筑紫の豪族葦連は、沈輪退治を大和の朝廷に願い出た。朝廷は、藤大臣を筑紫に向かわせた。
「沈輪は、追い詰められると水中に隠れることもできる恐ろしい奴です」
と、連が藤大臣に告げた。
藤大臣は、数千の兵を従えて沈輪の館を攻め立てた。だが、沈輪の行方がわからない。
「さては、池に潜ったか」
藤大臣の指令で焚かれた大松明が、昼間のような明るさで池を照らした。
刎ねられた生首が天空を舞う
「かかれ!」
大臣が叫ぶと、家来たちは長い鉾で一斉に池の底をつつきまくった。たまらず水上に顔を出した沈輪の首を藤大臣が刎ねた。沈輪の生首は、鬼の形相をして天空高く舞い上がる。そこを藤大臣は、自慢の八目矢で打ち落とした。
「その首を焼き払え」
鬼の形相がおさまらない桜桃沈輪の首は、大臣の命令で山積みされた茅に火をつけて焼かれた。
「これで筑紫に平和が戻ります」
葦連は、大和に凱旋する大臣に、何度も何度も礼を言った。
300年たって怨霊が
それから300年の月日が経過した。その頃、玉垂宮とその傍らの御船山高法寺上空に、薄気味悪い鬼火が天空を舞い、里人を怖れさせた。鬼火が出る年は凶作や水害が頻発し、筑紫国に多大の被害をもたらすと言われているからである。
葦連の子孫である吉山久運が玉垂宮にお参りすると、かつて桜桃沈輪を退治した藤大臣の幻が現れて、「本殿の脇にお堂を建て、その中に鬼火を封じ込めよ」と告げた。
久運の相談を受けた高法寺の安泰和尚は、早速本殿脇に鬼を封じ込めるためのお堂を建てた。お堂はその年の暮れに完成した。和尚が経を唱えると、どこからともなく怖ろしい声が響いた。
「我は鬼神である。我に逆らうものは滅ぼす」と。
和尚は、唐で学んだ有り難い経を大声で唱え続けた。経に怒った鬼神が暴れだした。空には稲妻が走り、周りの大木に落ちた雷は木々を焼き尽くした。
鬼堂を説明する鬼夜保存会会長
鬼会祈祷が始まり
「そこに徘徊する鬼神は、300年前にそなたの先祖が首を焼いた桜桃沈輪の悪霊であるぞ」
安泰和尚が久運に教えた。
「どうすれば、沈輪の亡霊は治まりますか?」
「まず、松明の灯りで鬼神の姿をあぶり出すのじゃ」
久運が松明で闇夜を照らすと、不気味な鬼神が現われて、二人を睨んだ。久運は鬼神めがけて矢を放った。安泰和尚はその間も経を唱え続けた。しばらくすると、静けさが戻った。
「なにゆえ沈輪は鬼神となったのでしょう?」
久運が和尚に訊いた。
「沈輪には弔うものもなかったゆえ、怨念だけが膨らんで悪霊となったのじゃ」
安泰和尚は、その後毎年大晦日から沈輪の命日である正月7日まで鬼会祈祷を行った。それが、今日の鬼夜の始まりだと伝えられる。
鬼夜の起こり
鬼火は毎年大晦日に採火し、その火は正月7日の夜まで燃え続ける。この火が大松明に移されて、祭りはクライマックスに。祭りのさなか、「鉾とった」「面ぬいだ」の掛け声を合図に、鉦や太鼓が乱打される(鉾面神事)。これは桜桃沈輪と藤大臣の戦いを形にしたものだといわれる。
同時に、大松明が境内を回る華やかさの陰で、密かに鬼がみそぎをする隠れた神事も行われている。鬼は決して人目に触れてはならないのだ。(完)
鬼夜の舞台となる大善寺川(筑後川の支流・広川の別名)ほとりの玉垂宮を訪ねた。境内には、祭りの期間中鬼が隠れる鬼堂や歴史を実感させられる楼門など、舞台効果をなす施設が整っていた。案内してくれた鬼夜保存会の光山会長さん、「このお宮さんは、文化財の宝庫ですたい」と胸を張って説明された。大善寺川でみそぎをする氏子たち
2007年1月7日、何年ぶりかで鬼夜見物に出かけた。前夜は台風並みの嵐で心配したが、当日は星も見えて絶好の“鬼夜日和”となった。
昼間には何度も訪ねるが、暗闇での古木群に蔽われた境内は凄みすら感じさせられる。見物人も溢れんばかりだし、大松明を担ぐ裸の若者たちの気合も十分だった。関係者に、筑紫次郎の「伝説紀行」掲載が影響して観客が増えたと聞いて、見物する僕も十分すぎるほどに力が入った。
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