伝説紀行 風の神 みやき町(中原)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第038話 2001年12月16日版
再編:
2017.03.26 2019.03.03
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときとでは、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

風の神   〜九千部山物語〜

佐賀県みやき町(中原)

 
テレビ塔が林立する九千部山頂

 筑後川下流から、寒水川(しょうずがわ)を遡っていったところに綾部八幡神社が建っている。神社の裏山を風天山と呼び、頂上には風天神が祀ってあった。「風天」とは風の神さまのこと。赤い皮膚の神さまが牙をむき、風をいっぱい詰め込んだ袋を背負っておられる姿は、子供の頃に親しんだ雷さまである。
 綾部の風天さまの役割は、山向こうから北風を呼び込んで、佐賀平野の農作物に滋養を供給されることだ。だから里人は、風天さまのことを「風の神さま」として千年以上もむかしから崇めてきた。
 毎年7月15日から9月24日まで、境内には神旗が掲げられ、旗の「はためき具合」を見てその年の天候を占うことになっている。そんなこんなで、里の人たちは、「わが町こそ天気予報のルーツなのだ」と自慢ダラダラ。
 そもそもお話の起こりは、神社に住み着いていた白蛇が、神さまの御渡りにあわせて風天山に先回りしているところを目撃されたことから始まった。


綾部神社横の風の神

暖冬と冷夏で大飢饉

 ときは平安時代の半ばというから千年も前の話になる。この冬は北風が吹かず、背振の頂に雪を見ることもなかった。梅雨には雨が降らず、お日さまを拝むこともなかった。そんな不規則な天候が災いして、農作物は壊滅状態に。未曾有の大飢饉となった。農民は娘を身売りに出したり、親子で首を吊ったり、まさしく地獄の様相を呈した。
 綾部の里の名主の甚兵衛さんは、背振の山中で修行をしている僧に祈祷してもらうことにした。呼ばれてやってきた隆信紗門という若い僧は、飲まず食わずで49日間祈れば、願いは叶うと信じて山に登っていった。

難行苦行

 頂に登った隆信僧は、眼下に見える千歳の川(筑後川)が有明の海に注ぐ様を眺めた。蛇行する川を挟みこむ肥前と筑紫の平野はのどかである。そこで人々が飢え死にしている姿など現実的なこととは考えられなかった。


テレビ塔が林立する現在の九千部山頂


 隆信は、広場に座り込むと早速経巻の第一巻から大声を張り上げて唱え始めた。1日目、2日目、3日目まではまったく辛いことなどなかった。ところが、5日目くらいから空腹と眠さと寒さで声もかすれてきた。
「負けてたまるか」
 隆信は、朝露を舐めながら読誦を続けた。1千部、2千部と経文が捲(めく)られていく。10日、20日と日が過ぎて、体は見る見る痩せ細った。木枯らしが吹き、幅の広い木の葉が隆信の顔にへばりつく。それを払いのける気力さえなくなっていた。体力の衰えで、念願の北風が吹いたことにも気がつかなくなった。

疑心暗鬼

 木枯らしが本格的な冬の北風に変った。間断なく降る粉雪が周囲を白の世界に変えていく。素足は霜焼けで腫れあがり、口元も紫色に変わってしまった。
「こんなことをしていて、仏は本当に祈りを聞いてくれるのだろうか」
 疑心暗鬼が頭をもたげた。
「今日は読誦を始めて何日目か?」
 日数を記す小石を数えなおす。
「あと7日か、先が見えた。満願なったら、たらふく飯が食える」
 脳の機能はあらぬ方向にばかり進む。そんなとき、睡魔が隆信の確信を叩きのめしにかかった。
「何をしておる、隆信! 最初の心意気はどこにいった」
 夢の中で、師の性空上人が叱った。山中は気味悪い梟(ふくろう)の鳴き声と、甲高い北風の音だけ。星一つ見えない暗闇で、坊主頭に降りかかる冷たささえも気にならなくなっていた。

女を抱きたい

 周囲に生暖かい風が吹き、艶かしい香りが隆信の鼻をついた。振り向くと、そこにはこれまで見たことのない艶かしい女性が豊満な肌もあらわにして立っていた。女は微笑みながら両手を広げて「おいでおいで」と手招きをした。
「そんなはずはない、ここは山の中だ。さてはわしの読誦を邪魔する悪鬼か」
 必死で振り払おうとするが、女はますます魅惑の香りを強めながら近づいた。
「一生に一度でいいから女を抱きたい」
 若い隆信の本能が揺らいだそのとき、暖かくて柔らかい女の手が、股間に伸びてきた。座っているすぐそばに、体長が1メートルもありそうな白い蛇が髑髏を巻いていたことなど、隆信は知る由もなかったのだ。写真:綾部地区から望む九千部山

亡骸の側に白い蛇

 満願の四十九日が過ぎても、隆信僧は山から降りてこなかった。心配した名主の甚兵衛さんは、使用人を連れて捜索に出かけた。隆信がいるはずの山頂は、積雪3尺の雪と氷の世界であった。
「この寒さと雪が去年であったら、あんなに飢える人もでなかったろうに」
 呟きながら甚兵衛さんが、骨と皮だけの隆信の亡骸を見つけた。
「あっ、蛇が・・・」
 使用人の大声で振り返ると、帯を引きずるようにして白い蛇が草むらに隠れた。
「この時期は冬眠しているはずなのに?」
 甚兵衛さんが首をかしげながら、隆信が読みかけの経巻を拾い集めた。経巻は強風と雨曝しで、読み終えたページには楓の葉が挟んであった。

10000−1000=9000部

「隆信は、目標にしていた1万部のうち1000部を読み残しておる」
 甚兵衛さんは、残りのページを閉じながら天を仰いだ。
「無念じゃったろうに。でも、お陰でこの冬はいっぱい北風が吹き、いっぱい雪も降った。間もなく春が来る」
 甚兵衛さんは、千歳川が一望できる場所に大きな穴を掘らせて、隆信僧の躯(むくろ)を弔った。(完)


風の神を祭る綾部神社

 この年の冬はいつもどおりに北風が吹き、梅雨時にはよく雨が降った。そして秋には大豊作だったとか。村人は、自らの命を捧げて祈った隆信に報いようと、風天神を祀った。
 佐賀県と福岡県の境をなす847メートルの山を「九千部山」と呼ぶ。隆信和尚が法華経読誦を1千部残して息絶えた山だ。今日の九千部山にはテレビ塔が林立していて、お話を連想することさえ難しい。

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