伝説紀行 寺坂吉右衛門の墓 八女市
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
四十七人目の浪士の最期 忠臣蔵異聞 寺坂吉右衛門の墓 福岡県八女市
福岡県八女市あたりの地図を見ていたら、「寺坂吉右衛門の墓」が目に入った。寺坂吉右衛門といえば、誰もが知っている赤穂四十七士の一人ではないか。先日東京高輪の泉岳寺を見学したとき、その末座にも「寺坂吉右衛門の墓」があった。地図を頼りに八女市豊福にある一念寺を訪ねた。本堂裏の階段を登りつめると、確かに「寺坂吉右衛門の墓」が建っている。
筑後に現われた ときは元禄時代も終わりの頃、千歳川(筑後川)の堤防に、 仇討ちの報告に 「吉田忠左衛門に縁続きの皆さまに、浅野家の家来による吉良邸討ち入りの顛末を報告に参上いたしました」
「忠左衛門の縁者は、拙者以外にこの地にはいない。次男の伝内も、親の罪に連座して伊豆に流されたし・・・」 仕事を終えて 「私めは吉田忠左衛門さまに仕える身分低き足軽でございます。本懐後大石内蔵助さまから、『浅野は人手が足りなくて足軽まで動員したと世間から蔑(さげす)まれては不本意である故、隊列を離れるよう』命じられました」
足軽ゆえの… 長かった。元禄14(1701)年3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城内で刃傷に及び、その夜のうちに切腹を命じられた。そして浅野家は取り潰し。大石内蔵助以下浪人となった家来衆は、幕府の不当な捌きを世に訴えるために決起した。翌年12月14日深夜、吉良の屋敷に討ち入った浪士たちは上野介の首級をあげ本懐を遂げた。
吉右衛門は、最後まで同士と行動をともにしたい、と哀願したが、内蔵助も主人の忠左衛門も聞き入れてはくれなかった。
隊を離れたあと京に飛んで搖泉院に報告を終えると、全国に点在する同士の遺族を廻る旅が続いた。大名の屋敷に預けられた46人が切腹したことを風の噂で聞いたときは、心底から自分もその場にいて腹を切りたいと泣き叫んだものだ。 卑怯者の汚名を背負って 往還を南下した吉右衛門は、久留米から2里離れた上妻郡忠見村(現八女市)にたどり着いた。足元の小川の水を掌ですくって口に運んだ。こんなにおいしい水を飲んだのはいつ以来のことか。今で言う山ノ井川の源流近くであった。
「ご家老、そしてご主人さま。私は言いつけどおり、同士の皆さまのご遺族にことの顛末を報告し終えました。日本国中を歩いていて、『隊から逃げ出した卑怯者』と 四十七士の供養は誰がする 「待ちなされ、早まるでない!」 一念寺縁起によれば、庵に篭った寺坂吉右衛門は、享保14(1729)年9月26日に66歳の人生の幕を閉じたと記されている。赤穂浪士が切腹してから実に28年の歳月が流れていた。吉右衛門の亡骸は一念寺が引き取り、現在のお墓となった次第。 47人目の赤穂浪士・寺坂吉右衛門についてはいくつもの書物や資料がある。死んだ場所や年齢・墓所のありかもさまざまだ。しかし、僕は筑紫次郎。ふるさとのお寺に伝わる縁起の方に興味が傾く。師走に入ってすぐ一念寺を訪ねた。ご住職曰く、「戦前の12月14日には学校単位でお参りがあったものだ」と。いつまでも変らぬ忠臣蔵贔屓は筑後でも生きていた。 |