伝説 「大刀洗」由来 大刀洗町 古賀 勝作
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
筑後最大の合戦「筑後川の戦い」 福岡県
筑後川の北岸に、「大刀洗(たちあらい)」という変わった名前の町がある。整備された公園の一角には、菊地武光(南北朝時代の武将)の勇ましい銅像が。この場所、「日本三大古戦場」のひとつに数えられる。 大保原(おおほばる)の合戦は、正平14(1359)年に起こっている。当時都では、足利尊氏が没して、二代目の義詮(よしあきら)が権力の頂点にあった。北条高時によって島流しされた後醍醐天皇が、元弘の乱(1332年)時に隠岐の島を脱出して京都に復帰し、「建武の新政」を開始した年から23年後のことである。写真は、大保原合戦の図 異臭の中を恋人探して 30歳に成長した懐良親王を御旗にいただく菊地の総大将は菊地武光。彼は、筑後の豪族・草野永幸ら4万の兵を従えて千歳川(筑後川)南岸に陣を張った。久留米市の「宮ノ陣」の地名は、懐良親王がこの場所で陣を整えたという言い伝えから付けられたものだとか。当時宮ノ陣は、千歳川の南岸に位置していた。
大川を挟んで北岸に陣取るのは、少弐頼尚・直資父子と大友氏時など六万騎である。一触即発の状態が幾日も続いた。
東の空が白んでも、勝敗の行方はまったくわからない。雑兵たちが右に左に駆け回り、次々に倒れて息を引き取っていった。 戦死者数は数千とも 愛馬に跨り、大保原(小郡市)で北朝方と切り結んでいる菊地武光には、雑兵の矢作がついていた。矢作は、竹槍を持たされ、形ばかりの防具を着けている。もし敵が主人に斬りつけたら、自分が馬の盾になって死ななければならない。言いつけどおり、必死で武光の馬を追いかけた。だが、疲労が重なっていて武光の馬を追いかけられずに見失った。そこに敵の群れが襲い掛かって、矢作の胸を一突き。 筑紫平野の北東部、花立花山の麓で、おせんは今日も許婚の行方を捜していた。周りの田んぼは踏み荒らされ、死体を焼く異臭が鼻をつく。つい数日前の戦が、何十年も前のことのように静かな佇まいであった。 改めて、大刀洗公園の菊地武光の銅像を見上げた。愛馬の嘶(いなな)きを背に、鎧兜姿の勇ましい武将が、旧戦場を睨みつけている。大保原から筑後川べりまで、古戦場跡は稲刈りも済んで穏やかな光景であった。 後醍醐天皇の皇子
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