伝説紀行 梅ヶ谷物語 朝倉市杷木


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第031話 2001年10月28日版
再編:2017.05.11
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

梅ヶ谷出世物語

福岡県朝倉市杷木町


生家跡に建つ梅ヶ谷銅像

 最近、大相撲の中継が面白くなくなった。上位を外国人力士が占め、日本人の若手に有望株が見当たらないせいかもしれない。いっそのこと、「相撲道」とか、「日本の国技」なんていうのをやめて、プロレス並みに営業本位の格闘技にしてしまったらどうだろう。
 そうはさせじと立ちはだかりそうなのが、郷土出身の力士たちだ。何度も相撲界崩壊の危機を救った彼らは、今の大相撲をどう見ているのか。少しでもいいから聞いてみたい。特に筑前杷木町出身の梅ヶ谷には。
 名産富有柿の畑を1キロほど登っていったところに、梅ヶ谷藤太郎の生家跡がある。整地された場所に、誰が植えたか、コスモスの花が赤白取り混ぜて美しく咲いていた。敷地跡には、等身大の土俵入り姿の銅像が。初代若乃花(勝治氏)が寄贈したんだそうな。

生まれつきの力持ち

 梅ヶ谷藤太郎(本名:小江藤太郎)は、弘化5(1845)年、上妻郡(現朝倉郡)志波村(現朝倉市杷木町)で生を受けている。
 父藤右衛門と母トメは、今日も朝早くから畑に出て、昨日開墾した畑に野菜の種を蒔いていた。昼時になると、飯を食いに戻ってくる。祖母と7歳になるカヨが準備した粥をすすってしばし休憩。その間にトメが赤ん坊に乳を飲ませた。
「昨日切り倒した木ば片付けにゃならん。祖母ちゃんもカヨも手伝ってくれ」
 藤右衛門が指示すると、カヨが剥きになった。


生家跡の記念碑

「藤太郎は誰が見るんだ」
「仕方なか。すぐ戻ってくるけん、そこの石臼にでも括っておけ」
 言われるままにトメが赤ん坊の腰に荒縄を結んで、一方を重さが15`もある臼に縛り付けた。仕事が終わったのは夕暮れ時だった。
「父ちゃん、大変ばい。藤太郎がおらんごつなった」
 一足先に家に帰ったトメが叫びながら出てきた。やっと1歳の誕生を迎えたばかりの藤太郎は、その時、括り付けている石臼を引きずって裏庭に出て、「キャーキャー」はしゃいでいた。

飯も三人前

 藤右衛門一家の貧乏暮らしは、果てしなく続いていた。トメは、明日食べる米に不自由している。十分な食事を与えられなくても、藤太郎はすくすく育った。15歳になる頃には、近所のどの大人より大きな体になった。その間に病弱だった祖母はあの世に去り、カヨも6里離れた甘木の酒問屋に奉公に出ていた。
 藤太郎はというと、時々畑仕事を手伝うくらいで、両親の期待を裏切ってばかり。そのくせ、飯だけは3人前をぺろりとたいらげる。方々で催される奉納相撲大会にエントリーして、優勝賞品の米俵などを担いで来るものだから、藤右衛門もあんまり文句を言えなかった。

「藤太郎の奴、このまま家に置いていてもよかじゃろか」
 両親の嘆き節は堪えなかった。そんな時、姉のカヨが奉公先から帰ってきた。写真は、梅ヶ谷地区
「店の主人が米俵の担ぎ手として藤太郎ば雇いたかち言いよらす」
 姉は姉なりに弟のことを考えていたのだった。それからというもの、姉は母屋で女中奉公、弟は酒蔵で力仕事と姉弟して良く働いた。

プロも顔負け

 一年たって秋が来た。藤太郎は、珍しく主人から「今日は休め」と言われ、同年輩の丁稚といっしょに相撲見物に出かけることになった。大坂相撲・湊部屋一行の興行だった。藤太郎は飛び入りの触れが回ると、エントリーのため裏に回った。
「名前を書け」と言われて、日頃田舎相撲で使っている「梅が枝」と書いた。
「この四股名(しこな)は、部屋の三段目におるから駄目だ。別の名前にしろ」と押し返された。藤太郎は考えた末、生まれた場所の「梅ヶ谷」とした。
 土俵に上がった梅ヶ谷は、三段目の力士と三番とって全部勝った。技もすべて豪快な上手投げときたから、観客席が沸くこと。そんな怪力少年を、花道横で嬉しそうな顔をして見つめている男がいた。

天覧相撲で

 甘木での飛び入り相撲から25年が経過した。藤太郎はとっくに四十路を過ぎていた。東京三田にある総理大臣屋敷での天覧相撲に臨んでいる。藤太郎の位は「東京相撲・正横綱」であった。四股名は、飛び入り相撲のときと同じ「梅ヶ谷」。飛び入り相撲の時、花道から見ていた男は、巡業頭の湊由良右衛門親方だった。甘木の興行を打ち上げたあと、親方は勤め先の酒屋の主人と梅ヶ谷の実家にいる父藤右衛門を訪ねた。藤太郎を入門させるためである。藤右衛門は躊躇した。家を継ぐ男の子がいなくなるからである。
「こげなよか話ば断るちはもったいなか。必ず横綱にして見せるち親方も言いよらすじゃなかか」
 親方に同行した酒屋の主人も、藤右衛門を説得した。長時間の話し合いの末、藤太郎は湊部屋に入門が決まった。文久2(1862)年春、ふるさと梅ヶ谷に若葉が燃え盛る頃だった。
「風邪ばひかんごつね。親方や部屋の人たちにかわいがってもらわにゃよ」
 筑後川を見通せる恵蘇八幡まで送ってきた母のトメが、家に残っているありったけの米で作ったおにぎりを渡しながら涙ぐんだ。
「母ちゃん、俺は絶対に大関になってみせるけんね」
「そげん太かこつば言わんでよか。相撲が駄目じゃったら、いつでんよかけん帰ってこんね」写真:梅ヶ谷の柿畑
 この時、母の姿の見納めになろうとは、さすがの藤太郎も考えも及ばなかった。

破格の昇進

 湊部屋に入門した藤太郎は、四股名を「梅ヶ谷」としたまま、激しい稽古と持ち前の怪力で、入門から4年たって東の小結に。そして翌年には大関まで上り詰めた。
 だが、本人も親方も、これで満足していなかった。東の江戸には、大坂相撲とは段違いの実力があったからである。大坂の大関も江戸では十両格。東京での初土俵から七場所もかかってようやく入幕することができた。だが、梅ヶ谷はへこたれなかった。稽古は入門当時より激しくなった。その甲斐あって、西の大関の座を射止めたが、その時年齢は既に35歳に達していた。そして第十四代横綱に。


地元の相撲ファンが収集した梅ヶ谷の錦絵

 時は移って明治18(1884)年11月、天覧相撲の晴れ舞台の日がやってきた。そこで演じた梅ヶ谷の土俵入りは、後世まで語り継がれるほどに絢爛豪華であったとか。
「父ちゃんと母ちゃんに心配ばかりかけたが、わしもとうとう天皇さまの前で相撲ばとる身分になったばい」
 梅ヶ谷は、控えで出番を待つ間、稽古と巡業のために死に目にもあえなかった両親の顔を思い浮かべていた。
 その直後のことである。横綱梅ヶ谷は大関西の海に寄りきりで破れてしまった。
「横綱は格下のもんに負けたらあかん」
 部屋に戻ると、その日のうちに髷を落とした。時に梅ヶ谷43歳であった。

ずば抜けた戦跡

梅ヶ谷の引退までの戦跡は次のとおり。

幕内生活  大阪で23場所、東京(江戸)で12年。
土俵寿命  22年
勝ち星    116
負け星    6
引き分け・預かり   10

 現役引退後は、名を雷(いかずち)と改め、その後29年間も協会運営に尽力した。
明治24年の相撲常設館の建設は、雷親方の努力があって初めて実現したものと言われる。このことが、一度は消えかかった大相撲の灯を再び燃え上がらせることになった。彼のことを「相撲道中興の祖」と言いう所以もそこにある。
 不死身といわれた梅ヶ谷も寄る年波には勝てず、昭和3年6月15日永眠した。83歳だった。墓は、東京大田区の池上本門寺内実相寺境内に。戒名は「本権院大雅日藤居士」。

 現在の杷木町梅ヶ谷地区は、一面柿畑で、見るからに豊かそうな集落をなしている。梅ヶ谷の生家跡は、集落から更に細道を登っていったところ。そこに立つと、当時の藤右衛門一家の悲惨な生活の一端が偲ばれる。(完)

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