伝説紀行 天ヶ瀬の乳ぎんなん 日田市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第030話 2001年10月21日版

2008.02.17
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

高塚地蔵の乳銀杏

大分県天瀬町

 
高塚地蔵尊の大銀杏と乳房状のこぶ

 大分自動車道を東に向かって天瀬インターを通り過ぎるあたり、鮮やかな朱色のお寺が見えてくる。ここが商売繁盛や家内安全を願う善男善女で賑わう高塚愛宕地蔵尊(たかつかあたごじぞうそん)である。このお地蔵さん、もともとは乳の出の悪い女の人が祈願するところだった。
 地蔵尊へ通じる急階段を登りきるあたりに、天然記念物の大銀杏が構えている。この銀杏、人呼んで「乳銀杏」という。銀杏の木の根元には、布切れを丸めて女性の乳房の形を作ったものがたくさん下げてあった。乳飲み子の母親の歳の数だけ供えると、たくさんおっぱいが出ると信じられてきたからだ。

貰い乳

 ときは奈良時代(西暦710〜794)。豊後の国の高塚の里(現日田市天瀬町)に、供の者一人を従えた旅のお坊さんが通りかかった。そこに10歳くらいの女の子が泣きべそかいて近づいてきた。背中には赤ん坊を背負っている。赤ん坊は泣き疲れたようによだれをたらして眠っていた。
「娘さん。どうしたんじゃ?」
 お坊さんが訊くと、ミチという女の子は大声をだして泣き出した。


写真は、乳銀杏そばのお地蔵さん

「妹にお乳を貰おうと隣村まで行ったが断られて家に帰るところです。このままじゃ妹が死んでしまう」
「おっかさんはいないのかい?」
「いるけど、病気で…」

「お母さんのお乳が出ないから、貰い乳をしているわけだな」
 お坊さんは、供の平太に乳の出るお母さんを探すよう言いつけた。

行脚中の僧は

 平太が連れてきた女が、親切に自分の乳房を赤ん坊に含ませた。
「ありがたい。あなたにも赤ん坊がいるだろうに。あなたにはきっと良いことがありますよ」
 お坊さんは、乳をくれた里の女に深々と頭を下げた。お坊さんは、自分の名前を高志と名乗り、諸国をまわって農民に溜池を造る技術を教えたり、お寺を建てたりしている偉い人である。筑後川を遡ってきて豊後に入り、いま高塚の里に着いたところだった。高志僧、お供の平太とともにミチの家に泊まることになった。家とは名ばかりで、今にも屋根が崩れ落ちそうに傾いている。中にはそれらしい家財道具もなく、藁を包んだだけの薄い布団にやせ細ったミチの母・ヨシが横たわっていた。
「娘さんに事情は聞きましたよ。あなたの病気が早く治癒するように、そして可愛い二人の娘さんが無事に成長しますよう、いっしょにお祈りしましょう」
 僧は、母子に心から同情し手持ちの食料を分けてあげた。破れ畳の上で母子と雑魚寝しながら、あまりにも惨めな暮らしに改めて気を遣った。道中農民からは、今年も干ばつで作物は全滅状態だと聞かされた。それでも彼らは必死に作業に励み、子供を育てている。僧は、平太とともにいまだ明けきらぬ東の空に向かって、ミチ母子の幸せと五穀豊穣を祈った。
 そのとき、彼方の大木の中ほどに、キラリと光るものを見つけた。

「地蔵菩薩」の尊号が

 ヨシに尋ねたら、あれは半里ほど離れたところの銀杏の樹だと言う。僧は駆けた。
「枝の先で何やら珠のようなものが光っております」
 早速樹に登った平太が主人に呼びかけた。夜が明けきると、僧も銀杏の大樹に登った。そこで僧が見たものは…、
 うっそうと繁る銀杏の葉陰に、五色の光が放たれ、光の中に地蔵菩薩の尊号と周囲に3個の宝珠が揺らめいている。その宝珠、子供を生んだばかりのお母さんの大きな乳房に似ていて、風に揺れていた。
 僧は、先ほどまでヨシ・ミチ母子の家で唱えていた経文を、さらに大声を出して続けた。
写真:高塚地蔵尊の大銀杏
「お坊さん、何を作るの?」
 ミチが、小刀で木を削り始めた僧に訊いた。
「うん、おまえのおっかさんにたくさんお乳が出るように。それから、里のお百姓さんたちがたくさん収穫できるように。お祈りするための仏さまを刻んでおるのじゃよ」
 高志僧は、自分の目に焼き付けていたあの時の地蔵菩薩像を彫った。そして、三日三晩かかって一体の仏像が完成した。

おっぱいが出た!

「お坊さん、ご飯だよ」
 すっかり馴染みになった僧にミチが声をかけた。だが、もうそこにお坊さんも平太の姿もなかった。家の中から母のヨシが大声でミチを呼んだ。
「ミチ、おっぱいが出たよ」

 感極まっている母の乳房に、赤ん坊が食らいついている。
 この話を聞きつけた里の衆が、ミチの家に寄り集まってきた。
「ありがたや、ありがたや」
 口々に、僧が去った東の方角に向かって手を合わせた。里人たちは、お坊さんが彫った地蔵菩薩像を大切にお祭りすることにした。お祭りする場所は、あの銀杏の大樹の脇に決めた。それが現在も、近郷近在から参拝客が絶えない高塚愛宕地蔵尊の始まりなのだそうな。また、ミチ母子にあやかって、お乳が出るようにと白い布で乳房を模ったものを銀杏の根元にお供えするようになった。
 この銀杏の樹、あれから1200年経って、今も天をも突く勢いで下界を見下ろしている。

不思議な僧は・・・

 高塚の里を離れた僧は、さらに諸国を巡りながら、農民や困っている人たちの実情を心に刻み込んで都に帰った。このお坊さんの本当の名前は行基といい、日本で最初に「大僧正」の位を受けた偉い坊さんだった。俗姓を高志氏という


賑わう参道

 そんなに偉いお坊さんが当時秘境とも言われた高塚の里までよくぞ来られたものだと感心する。
 行基僧といえば、数々のものを世に残している。
例えば、
○全国各地で池堤造成や橋梁建設、多くの寺院を建立。
○日本地図を最初に描いた人。
法隆寺金堂内の玉虫厨子の宮殿の瓦屋根形式を「行基葺」という。
行基僧が始めたと言われる素焼き、鼠色の須恵器。
天平時代の一大事業である奈良の大仏造営など。
 九州では屈指の古刹とうたわれる福岡県杷木町の普門院も1200年前に行基僧が創建したと伝えられている。
また、みやま市の本郷地区を流れる沖ノ端川に架かる橋も、最初に行基僧が建造したのだとか。(完)

 話には聞いていたが、高塚地蔵へ通じる参道の階段は並みの傾斜じゃない。途中の仲見世には、ゼンマイやワラビ・椎茸・栗など季節の農産物や観光土産品が所狭しと並べられていた。店の前に立つ女性が声をからして客を呼び込んでいる。ぞろぞろ続く貸しきりバスの観光客が、冷やかし半分で売り子と語らう、高塚地蔵ならではの光景だ。
 息を切らして階段を登りきったら、すぐ頭の上まで例の大銀杏の枝が垂れ下がっていた。これが行基僧が地蔵菩薩の尊号と宝珠を見たという銀杏の大樹か。幹周りを一周しながら根元を覗き見ると、あった、お母さんのおっぱいを模った布がたくさん。母乳よりミルクが重宝がられる時代だが、「乳ください」の願いはなくなっていなかった。

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