伝説紀行 高良山観音堂縁起 久留米市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第26話 01年09月23日版
再編:2018.01.14
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

開祖のお祈り

福岡県久留米市


高良山高隆寺の初代座主、隆慶国師の墓

 子供の頃遠足の定番といえば、高良山と決っていた。明治維新まで高良神社と高隆寺(こうりゅうじ)が同居する霊山であった。お寺の開祖は、遠く、飛鳥時代のお坊さんだとか。

宝満川が氾濫した

 時は朱鳥元(686)年、遡ること1300年以上も前のことになる。筑紫平野を南北に流れる宝満川のほとりに、男がぼんやり立っている。与太と名乗る漁師である。
「どうなされたのじゃ?」
 声をかけたのは、埃まみれの衣をまとった40歳半ばの旅の僧だった。
「川の水が増えて漁ができねえ」
「お気の毒に」
「ところでお坊さんはこれからどちらまで?」
「はい、川向こうの高良山に帰るところです」
「それは無理だ。千歳川(筑後川)が溢れそうで、渡ればお坊さんの命も危なかですよ」

嵐接近

 与太の進言でお坊さんが困った顔になった。
「近くに宿屋がありますけん、そこで水が引くまで待ちなさったらよかですよ」
 与太に案内された宿は、20人も入れば満杯になるような小さな家だった。中は、洪水を心配する村人でごった返していた。
「お坊さんのお寺は?」
 宿の主人が訊いた。
「はい、高良山の高隆寺で修行を積んでいる坊主です」
「そうですか。経を唱えながら家々を回っている托鉢さんですね。早く帰らないと、お寺の偉いお坊さんに叱られるでしょうに。でも、命あっての何とかとも言いますし」
 旅の僧と宿の主人の会話はそこで終った。外は夕暮れ時、遠くからゴロゴロと雷鳴が聞こえてくる。しばらくすると雷の音は数段大きくなり、雷光も激しさを増した。雨脚も強くなって、周囲の木立が振り子のように揺れた。

家ごと波間に

「大変だ、牛小屋が流されよる」
 階下での大声に反応して、与太が雨戸の隙間から外を覗いた。漆黒の闇の中に、増水した宝満川の水が土手を破り、あたり一面泥海のように見える。氾濫した泥水は、隣の家の土台を崩し、家ごと笹舟のように漂いながら彼方に消えていった。気がつくと、僧や与太が泊まっている宿屋も宙に浮いたように動き出し、立っているのさえママならなくなった。
「怖いよー」
 階下で幼子が悲痛な声をあげて泣きだした。恐怖に打ちのめされる村人の中で、旅の僧は目をつむったまま、経を読んでいる。(写真は、宝満川)
「お坊さん、お経なんか唱えていて、俺たちは助かるんかい?」
 与太が、震えながら経より外の手立てを考えるべきだと、食ってかかった。
「黙らっしゃい!」
 周囲がのけぞるような大声で、僧が与太を叱った。その目は鋭く、何者も近づけない威厳を放っていた。

適わぬときの…

「大変だ、宿屋が流される!」
 また誰かが叫び、宿にいたすべての者が僧の周りに集まった。宿が浮草のようにゆっくり移動を始めた。それでも僧は目を閉じたまま微動だにしない。
「俺たちの命もこれまでか」
 村人たちは、嫁や子供を家に残してきたことを悔やんだ。そこで初めて、旅の僧が村人たちと向き合った。
「慌てたからといってどうなるものでもありません。よいですか、あなたたちも目を瞑って、これまでに犯した罪や過ちを仏さまに告白するのです。そして、これからは自分のことより先に他人さまの幸せを願うと誓いなさい。そんな気持ちで、私の読経に続きなされ」
 観念した村人は、言われるままに、僧が唱える経を真似た。最初は口を動かすだけだったが、そのうちに我を忘れて、大合唱になった。


高良山旧御井寺跡


「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩・・・」
 泥海に漂う宿は、まるで難破船のように川下へと流れていった。

小舟に乗った童の群れ

「あれは、何だ」
 与太が叫んだ。暗闇の向こうから、一筋の光とともに、火の塊が近づいてきた。火の塊は流される宿の上空を旋回しながら、あたりをあかあかと照らし出した。
「あっ、舟だ! 10人もの男の子が乗っている」
 与太の声は興奮でかすれた。
「あれに見える童子は、観世音菩薩の遣いのものです。あなたたちが熱心にお経を上げたから、援けに来てくれたのです」
 僧がお祈りを続けながら応えた。10人の童は、乗り込んでいた小舟を漂流する宿屋のそばにつけ、一人がすばやく屋根に上って、綱の先を梁にしっかり結びつけた。舟に残った童たちは、綱の先端を持って、いっせいに掛け声を発した。
「エイヤ、エイヤ…」
 体つきからは想像もできない力強さで綱を引くと、宿は流れに逆らい、浸水していない小高い場所に向かった。与太が恐る恐る雨戸を開けると、家は浅瀬に乗り上げていて、濡れた地面にしっかり立っていた。
「助かったぞ。俺たちは生きている」
 それまで熱心にお経を唱えていたものたちが外に飛び出し、歓喜に咽びながら抱き合った。喜んだ村人が周囲を見渡すと、既に10人の童の姿はなかった。先ほどまで鋭い眼光で仏に向き合っていた僧も、もとの穏やかな表情に戻っていた。未だ現実のことと信じられない与太が訊いた。写真は、むかし観音堂が建っていたあたり
「お坊さん、あなたはただのお坊さんじゃなかでっしょ。どうか、ご尊名を聞かせてください」
「あなたたちの命を救ったのは私ではありません。あなたたちが私心を忘れて仏にすがったために、仏が情けをくれたのです。私の名前は『隆慶』。改まって名乗るほどではありません、あなたたちと同じ人間なのですから」

観音堂を建てて報恩

 そのときの隆慶和尚とは、実は高良山高隆寺で一番偉いお坊さん(初代の座主)であり、7年もの長い間都に近い難波津の大安寺南院(現大阪市)で、仏教の真髄を学んで帰る途中であった。
 命を救ってもらった村人たちは、隆慶和尚の恩に報いるため、危うく難を逃れた鯵坂(現小郡市味坂)の宿屋をそのまま寺にして、保存することとした。この寺は、『御堂』と呼ばれ、長い間人々に崇められたという。
 一方、無事高隆寺に戻った隆慶は、報恩の気持ちで高良山の山中に精舎を結び、観世音菩薩を祀った。その観音堂は今はなく、天然記念物として有名な金明竹林のあたりに建っていたと伝えられる。

 隆慶和尚の足跡を求めて高良山中を歩いた。車道から見える神籠石から遊歩道に入ると、乱雑に配置された墓所に出る。一段高いところには、整然と歴代の座主の墓が並んでいた。もう一つ高いところに一基だけ、りっぱな墓石が建っていて、「隆慶国師」の名号が刻んであった。

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