伝説紀行 怪力鬼太夫 日田市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第024話 2001年09月09日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。
怪力! 鬼太夫
豊後日田の大蔵永季

大分県日田市


玉垣も大相撲一色

 筑後川の中流域、日田盆地の中央を流れる三隈川(筑後川の別称)には、四方の山々から無数の小さな川が流れ込む。それまで狭かった川幅が一挙に大河となる場面だ。日田が水の都と言われる所以もそこにある。
 素敵な町並みをそぞろ歩きしていると「相撲神社」なる変った名前のお宮さんを見つけた。いままさに始まったばかりの大相撲九月場所にうってつけの話題である。
 
2011年大阪場所は、一部の関取らによる八百長相撲で中止になってしまい、伝統ある大相撲に、大きなマイナス印が刻されることになった。そのむかし、天皇や貴族だけに“見せる”相撲とはどんなものであったろうか。推し量ってみるのもおもしろい。

少年の一人旅

まから900年も前のこと。白川上皇が院政を敷いていた平安の時代である。播磨国(兵庫県)の砂浜を一人の少年が歩いていた。彼の名前は大蔵永季(おおくらのながつね)。九州の日田(こおり)を十日前に出立して京の都に向かう一人旅であった。都へは天覧相撲に召されてのことであった。
 
永季は子供の頃から人一倍体が大きく、巨石も軽々と抱え上げるほどの力持ちだった。世の人々は彼のことを「怪力・鬼太夫」と呼んだ。その勇名は都におられる天皇の耳にまで届き、日本一の力比べを見たいということで永季にお声がかかったというわけ。
 とは言っても永季、いまだ16歳と未熟の身。日田盆地から外に出たことさえなかった田舎者である。しかも天子さまの前で相撲をとるなんて考えただけで身の震えが止まらなかった。
「父上、どうしても行かねばならないのなら、お供を付けてくだされ」
 必死で頼む永季に父は冷淡だった。
「日本一の力比べをしようというものが、・・・情けなや」
 これから自分の跡を継いで世のために働かねばならない息子に、世間を勉強させる絶好の機会と考える父は、頑として永季の一人旅を譲らなかった。

神を恐れよ

父の永興(ながおき)という人はむかしから大変信心深い人であった。息子の永季が一人で旅立つ日、旅の途中でも神や仏に巡り合ったら、必ず祈願をして相応の寄進を怠らないよう義務付けた。父が日頃口癖にしている、「人間、所詮小さきもの。神を恐れ敬うことで、ご加護が受けられる」という信念を息子に伝えたかったらしい。
 日田の館を出立した翌日、筑紫の大宰府を通りかかった折、菅原道真公が眠る墓所にお参りした。現在の大宰府天満宮である。父の進言どおり、神前に額ずくと心から旅の安全と勝ち運を与えてくれるよう祈願し、相当の金品を寄進した。
 祈願のあと御笠川の岸辺に出た。御笠川は宝満山を源流として博多湾に流れ込む小さな川である。岸辺では10歳くらいの少女が熱心にレンゲの花を摘んでいる。永季はそのまま通り過ぎようとした。写真:太宰府天満宮近くを流れる御笠川

天神さまのお遣いは

「もし・・・」
 あたりには、レンゲを摘んでいる童女以外に人は見当たらない。
「そうです、私が呼んだのです。あなたは日田郡(ひたのこおり)の大蔵さまですよね」
 声をかけたのはやっぱり童女であった。姿は確かに童女なのだが、声は立派な大人のそれであった。一度も会ったことのない人がどうして自分の名前を知っているのか、不思議というより怖くなった。
「不思議がることはありません。私は先ほどあなたがお参りなされた天神さまの遣いの者です。あなたは都に出て、天子さまの前で相撲をとられるそうですね。お聞きしますが、あなたは相撲の相手がどのようなお方かご存知か?」
 天子さまからの呼び出し状には、相撲の相手までは書いてなかった。写真:博多山笠にも登場した鬼太夫
「そのお方は、出雲の小冠者といって、鋼鉄の皮膚を持つ力持ちです。あなたはそんな相手と相撲をとって勝てるのですか?」

鋼鉄の皮膚

「勝負事はやってみなければわからぬだろう」
「そうでしょうか? あなたがそんなお気持ちで都に行かれるのなら、今からでも遅くはありません。日田にお帰りなさい」
 童女は大人の口調で、相撲の相手について話し出した。
「母親は小冠者を身篭ったとき、日本一の力持ちを産むために、柔らかいものはいっさい口にせず、毎日鉄を砕いて食べました。それで、生まれた子供の体は鋼鉄の皮膚に覆われていたのです」


相撲神社の土俵

 話を聞きながら、顔が引きつっていく自分がよくわかった。都を目の前にして永季の憂鬱は募るばかりであった。郡司の嫡子ということで周囲からチヤホヤされ、力が強いとおだてられていい気になっていた自分が恥ずかしかった。播磨に着くまで、御笠川での童女の話が頭から離れず、美しい瀬戸の景色も観賞することなく、ただただ歩くだけの道中であった。
 童女が言うとおり、日田に引き返すべきか、それともどうせ土俵の上で殺されるのなら、いま目の前の海に身を投げようか。永季の頭はクルクル空回りするばかりだった。

再び天神さまのお遣いが

「もし、大蔵さま」
 永季がうつむいたまま思案にくれていたとき、目の前に色白でなんともいえない色気を漂わす30歳前後の熟女が立っていた。
「私です。十日前に大宰府の御笠川でお会いした天神さまの使いです。あなたはいまだに迷われていますね。出雲の小冠者と対戦するのがそんなに怖いのですか?」
 女は永季を揶揄するように「ホホホ」と笑った。その仕種がなんとも憎らしい。あの時の童女が、わずか10日間でどうして三十女になれるのか。神の遣いであれば10日のうちに大人になっても不思議はないのかも知れないが・・・。
「お父さまの言われたことをお忘れか。日頃から神仏を信じれば必ずご加護があると・・・」
「しかし、それとこれとは話が違う。相手は鋼鉄の皮膚を持つ現実の男でしょ。いくら私が力持ちでも、皮膚は柔らかく、弱点だらけです」
「そう決め付けることはありませんよ。あなたと同じように小冠者にも弱点の一つぐらいはあるでしょうからね。あなたとお父さまの信心に報いるために、私がその弱点を少しだけお教えしましょう」
 女はまた「ホホホ」と笑いながら、小冠者の持つ弱点を話しだした。

怪物の弱点

相撲が始まったら、決して相手と組まずに突っ張るのです。そして隙を見て、額を突くのです。何故かって? それはね。母親が小冠者を身篭っているとき、一度だけうっかり甘瓜を食べたからです。そのために胎児の額に3寸ばかりの柔らかい皮膚が残ってしまいました」
 気がついたら、移り香だけを残して女の姿は消えていた。翌日都についた鬼太夫は、帝の御前で出雲の小冠者と対面した。裸の小冠者は、思ったよりはるかに小柄である。だが、童女が言ったとおり皮膚は黒く輝き、筋肉は隆々。動きはいかにも敏捷の様子。
 いよいよ取り組みが始まった。小冠者は目にも止まらぬ動きで永季の前後を動き回った。何とか相手の動きを制しようとするがままならず。次から次へと技を仕掛けてきて、永季の足元がふらついた。時折顔面に飛んでくる鋼鉄の腕に叩かれて気を失いかける。俺の負けだ、と観念しかけたそのときであった。土俵のむこうにまた神の遣いの童女が現われた。童女はしきりに自分の額を指さしている。


写真:両国国技館正面に掲げられる力士像

「そうだ、弱点を突くのだ」
 小冠者がもう一度鋼鉄の体をぶっつけてきたその瞬間、永季の右の掌が小冠者の額に飛んだ。すると、小冠者の額は破れ、どす黒い血潮があたりに飛び散り、夢遊病者のように土俵の中を彷徨(さまよ)い始めた。そこで思い切り体当たり。小冠者の小さな体は土俵の外へ吹っ飛んでいった。
 帝から「汝こそ日本一の力持ちである」と誉められ、褒美と称号をいただいた。しかし、永季に心から喜ぶ余裕はなかった。そして、あのような鉄の皮膚を持つ子を産んだ小冠者の母親と、神のご加護を信じろと言い続ける父・永興の姿が重なって思えて仕方がなかった。(完)

 日田神社の由来については、境内の説明板に詳しく書いてある。曰く、「この神社は相撲の神さまで、日田の郡司大蔵鬼太夫永季及びその祖、永弘、永興の三柱を祭ってあります」と。
 日田神社を訪ねたのは夏も終わりの頃。正面から拝殿に向かってすぐ、本格的な相撲場が目につく。さすがである。苔むした玉垣には、双葉山、前田山、羽黒山、名寄山そして、千代の富士や小錦の名前も。オールドファンならよだれが出そうな名前ばかりが連なり、当時の番付表も絵馬堂にかけられていた。
 日田神社の筋向いの見上げる場所に、大蔵一族を供養する慈眼山永興寺が建つ。日田市街を一望できる場所に建てられた宝物殿には、永季が父永興のために彫らせたという、十一面観音像など国の重要文化財が安置されていた。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ