伝説紀行 合楽の境目 東峰村(宝珠山)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第023話 2001年09月02日版
再編:2017年08月27日 2008.03.16
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

合楽の境目騒動
よそえもん

福岡県東峰村(旧宝珠山村)

 
美しい合楽の棚田風景と伊藤さん宅

 旧宝珠山村(現東峰村)は福岡県の南東部にあって、人口2000人足らずの小さな村である。村の大半が山岳で、傾斜地には美しい棚田が連なり、見るものを楽しませてくれる。問題の合楽(ごうらく)地区は村の東北部で、民家がたった4戸だけの飛び地風集落である。珍しいことに、4軒が4軒とも伊藤姓を名乗っておられる。
 合楽のすぐ目の前の鶴河内川を挟んで向こう側は大分県の小鹿田(おんた)地区。県境線はというと、地元の人でもよくわからないくらいにややこしい。

そこは豊後か、筑前か?

 赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入りする15年ほど前のこと。時代は今から350年もむかしの元禄時代に遡る。岩屋に住む与三(よさ)という男が鶴河内川(つるかわちかわ)のほとりにやってきて掘っ立て小屋を建てた。与三は、寝食を忘れて川から石を運び出し、段々畑を造った。やっと出来上がった田んぼに、ある日麦の芽がぞっくり出ている。
「誰が俺の田んぼに・・・」
 怒った与三は、麦の芽を全部刈り取った。そこに小鹿田村(おんたむら)(現大分県日田市)に住む豊作が血相変えてやってきた。


筑前・天領日田の境界線の谷川

「何ばしよっとか! 俺がせっかく植えた麦ばめちゃめちゃにしくさって。よその畑のもんば取る奴は泥棒たい」
「ぞーたん(冗談)のごつ。こん田んぼは俺が石ば積み上げて造ったとぞ。泥棒はおまえの方だ」
「ばってん、ここは豊後の領地じゃろが。お前は筑前の岩屋んもんじゃなかか」
「まだそげなこつば言うとか、ここはれっきとした筑前の領地ぞ」

百姓の喧嘩に殿さままでも

 我慢ならない豊作は、日田の代官所に訴え出た。話を聞いた代官さまは、早速福岡のお城に早馬を飛ばし、「天領である豊後の土地を荒らす不届き者を差し出すよう」迫った。
 抗議を受けて黒田の殿さんが困りなさった。もともと争いが嫌いな上に、相手は幕府直轄の代官である。仕方なく与三を呼び出された。
「何をしでかしたのじゃ。むやみに他国のもんば刺激しちゃならん。余は大変困っておるぞ」
 呼び出された与三も黙ってはいない。
「お言葉ばお返ししますばってんが、あそこは筑前でございます。俺の父親がそげん言いよりました」
「ばってん、その証拠はなかろう」
 しばらく沈黙が続いた後、与三が自分の膝を力いっぱい叩いた。
「証拠ならあります。父親の話ですと、むかしの人が合楽と小鹿田の境をはっきりさせるために、合楽川(筑前の者は鶴河内川をそう呼ぶ)の川底に、縦一列に木炭ば埋めたそうです。それば掘っていけば、国境がはっきりするとじゃなかでしょうか」
 与三の話を聞いて喜んだ黒田の殿さん、その旨を日田の代官さまに知らせた。代官さまも「証拠があるなら」ということになり、実況検分とあいなった。そうなると、与三は口から出まかせを言ったことで、前後策を考えなければならない。一歩間違えば、この首がどこにすっ飛んで行くかわかったものじゃない。(写真は、境目線を見張る伊藤與三衛門の墓)
 検分の日がやってきた。代官さまと殿さんが固唾を飲んで見守る中、侍たちが川底を掘り始めた。その時与三の表情に慌てた様子など微塵も見えない。「あ、ありました。川底に木炭の列がありました」
 鶴嘴(つるはし)を持つ侍が叫んだ。木炭の列は、川底から陸に上がり、ジグザグしながら山に登っていき、そのあとは延々と尾根伝いを南に続いていく。

木炭の列の種明かし

 調査状況を途中まで見ていた日田の代官さま。「急に用事を思い出したゆえ」と言って立ち上がり、さっさと帰ってしまわれた。帰り際に、「証拠が出ては、争えんな」と呟いて。
 合楽は、こうして筑前領地として認知されることになったのである。元禄4年に双方が捺印した協定書まで存在する。世に言う「筑前合楽村と豊後日田郡鶴河村・枝村・小鹿田村との境目論争」の決着である。

枝村:枝郷とも言う。また漢語調で支郷とも。新田開発などで新しい集落を開発したり、または一村の高を分けて新設したりしたときに使った。枝村に対して元の村を、「親郷」「親村」「本郷」「本村」と呼ぶ。(角川書店・福岡県地名辞典より)

 本当のことを言えば、与三があたりの炭焼き小屋から木炭をかき集めて、徹夜で川や尾根に埋めただけのこと。もちろん、そんな小癪な手段を日田の代官さまともあろう人が見抜けないわけがない。それなのになぜ・・・。
 それは、鶴河内川を挟んだ向こう側の棚田があまりにも立派に見えたからであった。その棚田、与三が一人で造ったものと聞けば、代官さまとて、今さら「あの土地は豊後のもの」とも言い出せなかったのだろう。

喜んだ黒田の殿さん

 一方、黒田の殿さんにしてみれば、天領日田と喧嘩をせずに領地を広げられたのだからこんなに喜ばしいことはない。功労者の与三には、本人もびっくりするような褒美がもたらされた。
@今後は苗字帯刀を許す、A田畑9石を与える、B合楽の住民には公役を免除する(一説には一生年貢の免除とも)
 与三は殿さんから「伊藤與三右衛門」なる侍みたいな名前までいただいてしまった。(完)

身近な秘境

 合楽は、宝珠山村の中でも“秘境”に属する。紆余曲折してやっとたどりついた山間の合楽地区での第一印象は、「ここが本当に福岡県?」。実際はJR日田彦山線の岩屋駅の山一つ向こう側なのだが、車だと何キロも迂回しなければならないからだ。写真:JR岩屋駅
 伊藤與三右衛門さんの子孫だという伊藤克教さんに案内してもらった。與三右衛門の墓は、美しい棚田と、自ら築いた境界線を見張るようにして立っていた。
 帰り道、再び元の道を通っているはずなのに、いつの間にか人っ子一人いない山中に迷い込んでしまった。しばらく進むと、ここも初体験の集落のど真ん中だったりして。与三が開墾した合楽村とは、そんなに近くて遠い秘境だったのである。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ