伝説紀行 納戸の汲み場 うきは市吉井


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第021話 01年08月19日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

新川無情
原題:なんどんくんば(納戸の汲み場)


吉井の町中を流れる南新川

福岡県吉井町

 久留米から大分に通じる国道210号が、やがて県境に達しようとするあたりに吉井町はある。この町はむかしから菜種を主原料とする製油業が盛んで、大きな油屋が軒を列ねていたという。 お話しの原題は「納戸の汲み場」といい、地元では「なんどんくんば」と訛って親しまれてきた。筑後川からひかれた用水路が、生活用水として活用された時代、どこの家にも台所代わりにしている水路に下りる階段があった。

若旦那が奉公娘に恋をした

 明治の頃、南新川のほとりに、使用人を何十人も雇っている大きな油屋があった。そこに、川下の農家からナミという娘が奉公に上がった。ナミは大変な働き者で、店の誰からもかわいがられた。そのうちに、跡取り息子の与太郎に惚れられたために、怒った主人の吉右衛門から解雇されてしまう。吉右衛門と息子与太郎の百日戦争が始まった。
「どうして、ナミは俺の嫁さんじゃいけんと?」
「大店と百姓の娘じゃ釣り合いがとれんちゅうこつたい」
 父子の口喧嘩は果てしなく続いた。一方、実家に戻されたナミは、与太郎と別れた悲しさから、毎日新川べりの納戸の汲み場で泣いていた。そんなとき、ナミを慰めてくれるのは、別れ際に与太郎から木蓮の下で言われた一言だった。写真は、鏡屋敷の汲み場
「心配するな。必ず親父を説き伏せてお前を迎えに行くから」と。
 その時である。川上から1枚の木蓮の葉が流れてきた。拾い上げると、葉の両面にべっとり油が塗ってある。そこでナミは、油屋の裏手を流れていた川が、ここに繋がっていることを思い出した。与太郎は、自分のナミに対する変らない気持ちを伝えたかったのだ。
「若旦那!」
 思わずナミは川上に向かって恋しい人の名前を呼んだ。

木蓮に託した便りが途絶えて…

「油屋の息子が、今度祝言ばあげるげな」
 隣の婆さんが噂をしているのが耳に入った。ナミの母親も、落ち込んでいる娘を見るにつけ言って聞かせた。
「あげな金持ちの息子のことは、早よう忘れんえ」


南新川

 悪い噂を聞くたびに、ナミの心は乱れた。だが、木蓮の葉は決まった時間に流れてくる。木蓮の葉が99枚貯まった翌日、木蓮の便りが途切れた。その頃、与太郎はものすごい形相で父親と向かい合っていたのだ。深夜になって、とうとう吉右衛門が折れた。
「絶対に離婚をしない。これまで以上に働くことを約束するか?」
「わかった。約束する」
 与太郎は、天にも昇る気持ちでナミの家に走った。
「遅かった、若旦那」
 与太郎がナミの家に駆け込んだとき、母親が泣き崩れた。
「ナミは、若旦那が木蓮に託した便りをたった一つの心の拠り所にして堪えていたとばい。それが百日目に途絶えて、周囲からは若旦那の祝言のことばかりが聞こえるし・・・。気がついたら、ナミは家からおらんごとなっちょった。ほんの先刻、ここから少し下の方で、冷たくなったナミが引き上げられたとたい」
 母親は、与太郎にすがって泣きじゃくった。
「なぜナミさんは俺の言う言葉ば信じてくれんじゃったと。苦労してやっと親父の許しを取り付けたのに」
 与太郎は、未だナミが死んだことを信じられず、亡骸を抱きしめた。ナミの両手には、99枚の木蓮の葉がしっかりと握り締められていた。(完)

 与太郎の油屋の庭には、大きな木蓮の木が聳えていたと年寄りは語る。だが何十年も前の話だ。その店もどこにあったのかさえ定かではない。もちろん、それらしい木蓮の木も見つからない。題材となった「納戸の汲み場」も、水道の普及でどの家からも姿を消してしまった。
 お話しの舞台となる「新川」とは、今から約340年前(寛文3年)の大凶作を契機に、大石と長野に堰が設けられ、そこから引いた人工河川のことである。

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