新廓 幕藩の終焉  かすりとしま 
第4章 筑後の人

新廓(しんくるわ)

 小川トクは、久留米到着から40年経って、新聞記者の松本高志に当時の心境をしみじみと語っている。
「初めて筑後川を渡る時、その川が三途(さんず)の川に思えたものです。大きな川は満々と水を湛えており、ゆったりながら力強く、確実に下流に向かって流れていました。そんな大川が、地獄に通じる関所にも見えたものです。この関所を越えてしまえば、生き別れの息子に二度と会うこともできなくなるのでは、そんな恐怖が全身を駆け抜けました」と。

 落ち着く先の新廓(しんくるわ)(現日吉町)に着いたのは、江戸を出立して50日目の慶応4(1868)年6月25日(旧暦)であった。歴史が慶応から明治に変わる直前である。
 三途の川に思えた筑後川を渡り終えて、久留米の町は意外に静かだった。
 関ヶ原の戦い(1600年)以後、藩主田中吉政の時代を経て、幕府は筑後国(ちくごのくに)を南北に分割した。矢部川以北を丹波福知山城にいた有馬豊氏(ありまとようじ)に、南部を陸奥(むつ)棚倉(たなくら)にいた立花宗茂に与えた。その体制は明治維新まで続くことになる。有馬豊氏は久留米に、立花宗茂は柳川に、それぞれ居城を築いた。


今に面影を残す旧新廓界隈

 久留米城下の新廓(しんくるわ)には、江戸から帰還する藩士のための屋敷が20戸新築された。久留米城の南方には、現在の久留米市役所あたりまで外廓(がいかく)(城の最外部に巡らした堀)が広がっている。新廓は、更にその外の十軒屋敷と並んで築かれた新しい町であった。
 おモトは、渡し舟を降りてすぐから眠り続けている。トクは駕籠舁(かごか)きに礼を言って帰すと、すぐ食事の支度にかかった。炊事道具や当面の食材は、柴田時右衛門の家族があらかじめ備えてくれていて、ひもじい思いをせずに済んだ。寝具も押入れに幾通りか揃えてあった。


資料:古賀幸雄氏提供

 シゲは、夕食の準備が済むと、「またあした来ますけん」と言いおいて、鉄砲小路(てっぽうしょうじ)の自宅に帰っていった。久留米に着いた夜、トクは摂子と同じ部屋でおモトに添い寝した。
 翌朝早く、シゲと時右衛門の妻芳江が連れだってやってきた。芳江は摂子と言葉を交わしたあと、これからの暮らし方について詳しく説明し、昼頃には帰った。
「トクさん、お嬢さんと一緒にそこらば歩きまっしょうか」
 シゲに誘われて、トクは眠り足りないで目をこすっているおモトを抱いて表に出た。周囲はすべて削りたての木の香が漂う家ばかりである。入居者はいくらもないが、そのうちに満杯になるはず。江戸上屋敷での顔なじみが揃うのも時間の問題だろう。
 新廓を出たところに山王社(明治6年から日吉神社)の裏門があった。そんなに広くない境内には銀杏(いちょう)や桜が枝を張っていて、上空が望めないほど。
「つい先頃(旧暦6月7日)、城内にある祇園さんのお祭りが終ったばっかりですけん。このお  宮さんは、ご神幸の際のお旅所(たびしょ)になっとります。むかしの祭りは、お侍さんも町民も、みんな繰り出して大そう賑わったもんです。その時ばっかりは、お殿さまも城の外まで出て来なさって見物なさったとですよ。それもお国の倹約令が出てからは淋しゅうなりました。ほれ、時右衛門さまのお屋敷はこの先の十軒屋敷の中ですよ」


現在の日吉神社

 十軒屋敷とは、藩が武家屋敷街を整えるとき、とりあえず十軒だけ建造したことから地名として残ったものだとシゲが説明した。最近ではその十軒屋敷に80戸ほどの中級武士が住んでいると言う。現在の日吉小学校一帯のことだ。
「おシゲさん、水天宮さまはどこ?」
 トクは、江戸の上屋敷内に祭られていた水天宮の本社に、到着の挨拶がしたかった。出立する際に、旅の安全と息子の無事をお願いしてきたからである。
「今からお嬢さまを抱いて行くにはちょっと遠かですよ」
 シゲは、またの機会にするよう言って、屋敷に戻ることを勧めた。夕刻、時右衛門が冴えぬ顔をしてやってきた。
「トクには気の毒だが、お住居(すまい)さまの江戸へのご帰還が無期延期になった」
 筑後川を渡る時、心の中に渦巻いた「三途の川」が現実のものになった。
「ご免なさいね。世の中が少し落ち着いたら、こちらから江戸に出向くお方も大勢おいででしょうから、そのときご一緒させてもらいましょうよ。それまでおモトや私の相手をしてくださいな。私とて心細くて」
 摂子は涙ぐみながら謝った。
 そのまた翌日は、朝から良い天気だった。トクは摂子とおモトを伴って水天宮に出向いた。摂子も江戸屋敷内にあった水天宮の本社と聞いて、連れて行ってくれるよう申し出た。新廓から町中を西方へ向かって歩いて行くと、筑後川のほとりに大鳥居が見えてきた。


水天宮の大鳥居

「せめて遠くからでも息子の無事を祈らなければ・・・」
摂子に向かって話しかけたのか、自分に言い聞かせたのか、わからない独り言だった。

幕藩の終焉

 その夜も、やってきた時右衛門夫婦に、トクは長い時間かけて久留米の様子を尋ねた。
「江戸詰めの者が大挙して帰ってくることは上役からも聞いておったし、覚左衛門からの便りでも承知していた。長いこと国元を離れて苦労したそなたたちには、何でもしようとかねがね考えていたところだ。だが、城内では今大変なことが起こっておる」
 時右衛門は、静かな口調で、最近の久留米でのできごとを語り始めた。幕藩体制の継続に反対する藩士21人が、「藩公の上京と朝命尊奉」を家老の有馬主膳に建言した。藩内における佐幕派(さばくは)と尊攘派(そんじょうは)の対立は抜き差しならぬ事態にあった。そんな時、藩主有馬頼咸(ありまよりしげ)が、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)への献身を宣言する。憤激した小河真文ら尊攘派24名は、公武合体論を主張する藩の参与・不破美作(ふわみまさか)を自宅前で暗殺するに及んだ。
 戸田覚左衛門はトクに対して、「母上とおモトを送り届けてくれれば、国元におられるお住居(すまい)さまが、江戸に戻られる折に同行させてもらう」と言っていた。藩主の正室である精姫(あきひめ)は、トクが江戸を発つ直前の4月に江戸屋敷を発っている。その途中の大坂では、お供をした参政・吉村武兵衛が何者かに拘束された揚句に自害した。吉村もまた佐幕派の重鎮だった。こうして、旧体制を死守しようとする勢力は一掃されていく。トクたちが久留米に向かう途中の5月28日には、当時京都の三条実美卿邸にいた尊攘派実力者・水野正名が久留米に戻り、藩の実権を握った時期である。
「覚左衛門は今どこで何をしているのです?」
 摂子は、地元の一大事より、息子のことが気がかりだった。
「はっきりしたことはわからんが、久留米におられる殿が、間もなく主上(しゅじょう)(明治天皇)のご登極(とうぎょく)(即位の大礼)に参列される、その時までにははっきりするはずだ」
義兄の返事がもどかしくて、摂子の言葉も途切れがちになる。
「久留米ってどんな町です?」
 今度はトクが話題を変えた。
「城を取り巻くようにして流れる大川(筑後川)が、年に何度か氾濫(はんらん)する。川岸の瀬下(せのした)など、雨が降る度に水との戦いだ。だが心配はいらん。この新廓まで水が押し寄せてくることはないから」
 時右衛門は、摂子やトクの不安げな顔を見て、慌てて慰めを言った。
「ばってん、ものは考えようたい。そげな大水が農作物には欠かせん栄養分を運んでくるのだからな。お陰で筑後の畑では何を植えてもよう育つ」
「この地では、織物は盛んなのでしょうか?」


久留米城跡

 突然話が織物に及んで、時右衛門が答えに窮した。すかさずシゲが身を乗り出した。
「どこの家でもかすりば織っとります。はた織りができん娘は嫁にも行けんとです。それに、かすりは買うと高かけん、自前の着物はなるべく自分の家で織るごとしとります」
「久留米も、宮ヶ谷塔も同じなのですね」
 覚左衛門の伯父が話すように、時代は大きな曲がり角にあった。それから間もなくして、幕府に代わる天皇中心の明治政府が誕生する。
 トクらが久留米に到着した翌年の明治2(1869)年には、久留米藩主が天皇に版籍(はんせき)を返上した。いわゆる「版籍(はんせき)奉還(ほうかん)」といわれるもので、全国の藩主が版(土地)と籍(人民)を返上した改革である。廃藩置県で誕生した県は、全国で3府・72県に及んだ。
 中央政権が次々に打ち出す政策は、間をおかずして筑後地方でも徹底されることになる。明治2年初頭には神仏分離令が公布され、古くから続いた高良山の御井寺が追放された。
 そんな折、身近でも衝撃的な事件が起こった。参与・不破美作(ふわみまさか)暗殺から丁度1年が経過した頃である。それまで佐幕派の先頭にいた今井栄ら9人に、「国是の妨げ」という理由で切腹が言い渡されたのである。
「あの、今井さまがね」
 摂子が眉に縦じわを寄せて悲しんだ。今井栄は、かつて江戸の上屋敷にあって、「若殿様御用勤」として重宝がられた人物。有馬頼永(よりとお)が10代目の藩主に就くと、藩の財政建て直しや富国強兵政策を実行するために奔走し、三名臣の一人ともうたわれるようになった。


今井栄の墓(久留米寺町西方寺)

 有馬頼永の死後、今井栄は留守居役から御納戸役(おなんどやく)へと登りつめる。11代藩主頼咸(よりしげ)が精姫(あきひめ)と大仰な挙式をあげる頃、藩の苦しい台所事情にあって、その責任者だった。文久3(1863)年に江戸詰めを解かれて久留米に帰着した後も、納戸役や用人次席などの重責を担っていた。同じ上屋敷内で、噂以上に親しみを感じていた今井栄の身近での切腹は、摂子にとっても耐え難い出来事であった。

 戊辰戦争(ぼしんせんそう)に目途(めど)がついた頃、新廓の屋敷に戸田覚左衛門が帰ってきた。摂子は息子に抱きついたまま泣きじゃくった。江戸の屋敷ではめったに見せなかった摂子の人間らしい姿であった。2歳に成長したおモトは、父親の膝から離れようとしない。親子三代が、誰はばかることなく再会を喜び合う光景を、そばで見ているトクの心境は複雑であった。自分には息子栄三郎との再会など、永遠に来ないのだろうかとも思ってしまう。
「トクには無理なことを頼んでしまった。詫びと礼が一緒になったが、本当にすまなかった」
 覚左衛門がトクに向いたのは、親子が再会を喜びあってしばらくたってからだった。
江戸からの帰還藩士とその家族で、急に新廓が賑やかになった。最初に引っ越しの挨拶に現われたのが、上屋敷でも隣に住んでいた今井市九郎の家族だった。妻の静江が女中のウメを伴ってやってきた。
「また隣どうしということになりました。よろしくお願いします」
静江の言葉使いも、親しみを込めた庶民のそれに変っている。
「トクさん、またごいっしょできるわね」
 ウメが再会を喜んで、トクの手を握り締めた。
「江戸の屋敷を離れる時、上野(こうずけ)(群馬県)の田舎に帰ろうかとも思ったのだけどね。帰っても邪魔者扱いされるだけだし・・・。それならいっそ、戸田さまのご家族とトクさんがいらっしゃる九州に行こうと決めたの。江戸では私が先だったけど、こちらではあなたが先だから、よろしくお願いしますね」
 ウメは、トクに向かって茶目っ気たっぷりに頭を下げた。
「私だって、最近こちらに来たばかりじゃないの。どちらが先ということもないわ。久留米のみなさんは親切な方ばかりだし、心配しなくても大丈夫よ」
 トクの袖を掴んだまま大人たちの会話を聞いているおモトをウメが抱き上げた。
「ちょっと見ない間に、大きくなったわね。これからもお姉ちゃんと遊んでね」
「あらあら、おウメさんたら、いつの間にお姉ちゃんに若返ったの」
 摂子が笑いながらウメの肩を叩いた。そのウメも、既に30歳を過ぎているはずである。

かすりとしま

 ウメと再会して、トクの気持ちは落ち着いた。世の中が変わり武士の特権を剥奪された覚左衛門には、女中を雇う余裕などないはずである。そんな戸田家にいつまでも居座ることは心苦しい。食べる分くらい自分で稼がなきゃ、と心が急(せ)いた。
「何ばそげんジロジロ見よると?」
 シゲは、自分を見つめているトクが気になって訊ねた。
「ごめん、ごめん。こちらではまだ木綿の他は着てはいけないのよね?」
「お城からのお達しで、木綿しか着ちゃいかんの。絹のきもん(着物)なぞ身につけようもんなら、すぐにしょっ引かれるもん」


当時代表的なかすり模様(重ね枡)

トクは改めてシゲが着ているかすりに見入った。
「こんなに複雑な模様を織るのは大変でしょうね」
「あらトクさんもはた織りがでくると?」
「できるというほどじゃないけれど。子供の頃から見様見真似(みようみまね)で覚えたの。好きでね、自分の足でタテ糸を操る時の踏木の音と、ヨコ糸を締め付ける筬(おさ)の音が。上等な調べを聴いているみたいに聞こえたものだわ」
 かすりの話が飛躍したことに、トクは苦笑した。
「それなら、面白かとこに連れていこうか」
 シゲが案内したところは、新廓から東に歩いて15分ほどの構え口の外にあった。
「このへんは通外町(とおりほかまち)というて、すぐ向こうに五穀神社があると。このお宮さんの祭りも、ばさらか賑わうとばい」
 同じような竹皮葺き屋根の建物が三棟連なる家の中から、懐かしいはた織りの音が聞こえてきた。それも1台や2台ではない。
 シゲに促されて中を覗(のぞ)いた。薄暗い部屋の中で織機の前に座り込んだ女たちが、脇目も振らず両手両足を動かしている。数えれば10台以上は並んでいる。巻軸を腰に巻き、綜絖(そうこう)を両足で繰つる。いざり機(ばた)と称する機械であった。


いざり機(地場産くるめ展示)

「珍しいかね?」
 おモトの手を引いたまま見入っているトクに、シゲが擦り寄った。
「久し振りですからね。はた織りを見るのは」
「お伝さんのかすりは、ここから織り出されるとばい」
「お伝さんね、あの・・・」
 かつて大工の末吉が話していたことを思い出した。
「お伝さんはこの織屋の主人で、天から霰(あられ)が降ってくるごときれいか(美しい)かすりの模様ば考えなさった。もう年じゃけん、近頃は床についてばかりげな」
小川トクが久留米縞(くるめじま)を創りだす動機となる、これが久留米絣(くるめがすり)との出会いであった。そして、間接ながら、井上伝と初めて接した時であった。

 トクとシゲがかすりの作業場を立ち去ろうとした時、中年の男から声をかけられた。男の後ろには若者がついている。
「あら、松屋のおっちゃん。魚喜(うおき)さんもいっしょたいね。二人して何事ですか?」
 シゲは男たちと顔見知りらしく、気安く話しかけた。
「お伝さんば見舞いに来たとたい」
 シゲに「松屋のおっちゃん」と呼ばれた男、木綿問屋の主人庄兵衛だと紹介された。年齢は50歳くらいか。そばにいる「魚喜」と屋号で呼ばれた男の名は喜次郎といい、痩せ型で精悍な顔つきが印象的な青年である。
 庄兵衛はといえば、シゲの脇に立っているトクの方に気持ちが向いていて、落ち着きがない。
「嫌ね、おっちゃんは。美人を見たら、すぐにでれっとした顔になるとじゃけん」
 言われて男は、照れ笑いで誤魔化(ごまか)そうとする。
「この人は、最近江戸から新廓に来なさった戸田さまのところの女中さん。トクさんちいいなさると。生まれは武蔵国(むさしのくに)げな。大そうはた織りが好きち言いなさるもんで連れてきたと」
 シゲがトクを紹介した。庄兵衛は、まだ照れが収まらないらしく、気忙(きぜわ)しく長キセルにキザミタバコを詰め込んでいる。
「そうかい、はた織りが好きかい。そんなら今度うちの店に遊びにこんね。よか反物ば見せてやるけん」
「お伝さんが待っとらす」と言って、庄兵衛と喜次郎は家の中に消えた。
 初対面の庄兵衛は、通町3丁目で「本村木綿織物商店」の看板を出しているあきんどだとシゲが教えた。 

ページtopへ  次ページへ  目次へ  表紙