灯が消える
西南戦争が収束して半年が過ぎた明治11(1878)年の春。その日は、朝から季節外れの嵐が吹き荒れていた。久次が強(こわ)ばった表情で顔を出した。
「大将、またですよ」
手紙を持つ久次の右手が小さく震えている。
「今度は、広島の吉野屋さんです」
「注文を止める、ちか」
「それだけじゃなかです。売れ残ったかすりば全部引き取れち」
店の番頭役として、日々の切り盛りと店主の相談相手を務める久次にしては、珍しく泣き面(づら)である。
現在の久留米問屋街
こんな調子では、久留米中の木綿屋の商いが危ない。喜次郎の頭を不気味な感情が過(よぎ)った。不安風は業界に限らず、久留米の町中を覆っている。
原因はわかっている。西南戦争が終って軍人は元の部署に戻り、動員されていた兵も国元に帰っていった。彼らは、帰国の途中久留米に立ち寄り、店先で説明する店員の言葉にうなずき、競って久留米絣を買い求めた。見る見る店先から品物が消えた。
「久留米絣がないんじゃ、話しにならん」と、兵は怒った。そこで喜次郎らは、倉庫の隅に積まれている欠陥品や売れ残り品まで、すべてを店頭に並べた。それでもまだ足りない。そんな時、ある木綿屋は考えた。少々見栄(みば)えが悪くても、原糸や染料がお粗末でも、品物を揃えるのが先だと。商人にとって、絶対にやってはいけない禁じ手であった。
仕入れにやってくる近在の小売業者の数も激減した。関西や中国地方の問屋だけでは済まず、身近な小売店からまで見放された。
屋根に叩きつける雨音が、喜次郎と久次の会話をも遮る。
「苦労して勝ち取った問屋からの信用も、すべて台無したい。これからどげんなるとでっしょうか、大将」
「そうたいね。売りもんば仕入れても、売れるあてがないんじゃどうしようもなかない」
人の往来が途絶えた表通りを眺めたまま目は虚(うつ)ろであった。こんな時には師匠の助言をと、本村商店に向かった。真正面からの雨粒が顔面を強打する。その日は珍しく庄兵衛が店に出ていて、訪ねてきた盆栽仲間の下駄屋の門次郎と談笑中であった。
「おお、よかとこに来たない、喜次郎」
庄兵衛は、喜次郎を自分の隣りに座らせ、下駄屋と向かい合わせた。
「魚喜さんも、この度の戦争で大儲けをなさったそうで」
真向かいの男の言葉が皮肉に聞こえて、喜次郎は思わず目を伏せた。いつ現れたのか、庄平も養父庄兵衛を挟んで向う隣に陣取っている。
「親父さんは、どげんしたらよかち思うですか」
庄平が、話しを養父に向けた。
「わしのことより、お前はどげん考えとるか」
「俺は、時間に解決してもらうしかなかち思う。頭ばひっこめておけば、そのうち人の噂も通り過ぎていくとじゃなかろうか」
「馬鹿たれが。そげなこつば考えよるとか、よか年齢(とし)ばして」
庄兵衛の怒鳴り声を何年ぶりに聞いたことか。
「よかか、庄平。商いちいうもんは、客から信用ばいただくまでに何年もかかるとぞ。この本村の店でん、ずっと前の代から営々と築いてきたもんたい」
そこで、庄兵衛の言葉が途切れた。何かを思いつめたのか、それとも久しぶりに大声を出して、喉に変調をきたしたか。差し出された茶を一気に飲んで、改めて庄平に向き合った。
「それだけじゃなか」
「まだ何かあるとですか、親父さん」
「庄平も喜次郎も、よう聞いとけ。お前どんは、悪かこつはみんな三益屋のせいにして責任逃ればしとらんか。戦争帰りの兵隊さんの弱みに付け込んで、普通なら捨ててしまうごたる傷もんまで売った。兵隊さんは、よかもんも悪かもんも区別できんで、どんどん買うてくれた。図に乗ったお前どんに、その時卑しか根性が頭ばもたげたとじゃなかか、喜次郎」
話を振られた喜次郎も、次の言葉が出てこない。
久留米絣
「お傳さんから版木ば貰うた時、何ち言われたか」
庄兵衛に促されて、喜次郎の脳裏を傳の言葉が過(よぎ)った。
「世間じゃ、はた織りのこつば貧乏人が飯を食うためだけにやっとるくらいにしかみておらん。本当はそげなもんじゃなか。はた織りは、人間にとって米ばつくるのと同じくらいに大切な仕事たい。お前には、久留米のかすりばそげな風に見てもらうごと商いばして欲しか」
庄兵衛の声は、天から降ってくる傳の怒りの声と重なっているように聞こえた。外の嵐は、時間が経っても窓ガラスを叩きっ放しである。
喜次郎は傘もささずに駆け出した。家に入るなり、箪笥(たんす)の引出しから「お傳かすり」の版木を取り出した。
「お傳さん、助けて」と叫びたい衝動を抑えて、床に就いた。なかなか寝付けない。傍でたつえと4歳になる金太郎が、かすかな寝息をたてている。
「一度失った信用ば取り戻すのは、並大抵の努力では叶わない」、庄兵衛の言葉が耳から離れない。「何でも売る」の根性を捨てて、良い品を売ることに徹すべきだった。近江商人が心得る「三方良し」の精神は、決してよそ事ではなかったのだ。三益屋の不正を知ったその時、体を張ってでもやめさせるべきだった。そして、自らの商いを顧みるべきだった。
親から受け継いだ魚屋をやめて、かすり屋に転じてから15年が過ぎている。順調に滑り出したはずの家業がここにきて挫折とは・・・。外では相変わらず雨風が屋根瓦を叩き続けた。
いかいうみ
喜次郎が、春まだ浅い琵琶湖(びわこ)のほとりに立っている。6年前に初めて京都の地を踏んだ時、鶴屋の六左衛門が「あちらに見ゆるお山の向こうが、近江国(おうみのくに)どす。そこには、アホほどいかいうみがありましてな」と語ったことを思いだす。湖畔をひとしきり歩いて、八幡城下(はちまんじょうか)(現近江八幡市)に出た。
永原町や新町の通りには、白壁の大きな商家が建ち並ぶ。商家を囲む白壁の内側には、きれいに剪定(せんてい)された見越しの松が、競うように枝を張っていた。
見越しの松が特徴の商家街
屋敷町の北方にそびえる八幡山(はちまんやま)を取り巻くように、幅10間(18㍍)ほどの河川が巡っている。西ノ湖と琵琶湖を結ぶ人工河川の「八幡堀(はちまんぼり)」である。
荷を満載した小舟が通る新町浜の堀の岸辺で、喜次郎は鍋屋の増吉を待った。このところ久留米では、木綿屋仲間と額を寄せ合う日が続いた。本村商店の庄平をはじめ、福童屋の岡茂平や椎茸販売業を兼ねる松井屋の儀平なども加わって、議論は深夜に及ぶことが多かった。信用失墜の発端をつくった三益屋は、店を閉めて行方をくらましたままである。
「そげん頭ば抱えてばかりいなさらんで・・・」
椅子にもたれて、窓の外を見やっている喜次郎にたつえが声をかけた。
「こげな時こそ、よその国の空気ば吸うてきなさったらどげんですの」
「よその国?」
「近江に行きなさったら。先日、増吉さんから郵便ば貰うとったでっしょが」
たつえのひと言で、久留米を離れる決心がついた。電信や郵便などの通信手段は発達しても、いざ人が動くとなると、未だ二本の足だけが頼りの時代である。
「よぅう、来ておくれやしたな」
後ろから声をかけられて、喜次郎は長旅の疲れが消えていくような気分になった。久しぶりに聞く増吉のお国訛(なま)りが、先が読めない隘路(あいろ)を押し広げてくれそうな気にもなる。
「この度は、大そうな目に遭わはったな。うぃことで(お気の毒に)」
口では同情している風でも、増吉の目は笑っているように見える。
「お疲れどっしゃろが、もうちょっと気張っておくれやす」
豊臣秀吉の甥・秀次の居城があった八幡山(はちまんやま)(標高272㍍)に登って行き、増吉が眼下の湖を指さした。
琵琶湖の岸辺
「広うおますやろ。これがわてら自慢のうみ(琵琶湖)だす」
言われて、改めて琵琶湖の雄大さに驚く。
「見てみなはれ、うみの周りを。葦(よし)とか茅(かや)が仰山(ぎょうさん)繁ってますやろ。わてら近江商人にとって、どれもが大切な宝もんだす」
「葦とか茅がですか」
「そうや、葦とか茅は、簾(すだれ)や茅葺屋根(かやぶきやね)に姿を変えますやろ。それに、麻も」
「アサ?」
「そうどすがな。麻という植物は、大むかしから布を織るのに欠かせん大切な材料だすさかいな。おまんとこの綿と同じゅう、着物の材料にもなるし」
「麻が近江の特産だとは知りまっせんでした」
「麻布(あさぎれ)のことを、近江では上布(じょうふ)言いますねん。こう言っちゃなんやが、上布を作る技は、久留米の木綿とは比べようもないくらいに進んでまっせ」
「そのほかに、近江の産物は・・・?」
「煙草(たばこ)に蚊帳(かや)、砂糖、焼き物、万能薬なんぞもな。原料は、琵琶湖の岸辺で採れるもんばっかり。そうそう、わての店の鍋・釜も、琵琶湖畔の泥が原料どす」
増吉の話を聞いていると、近江商人の商売にかける意気込みが伝わってくる。山を下りてきて、日牟礼(ひむれ)八幡宮参道脇の茶店の板台に座り込んだ。
増吉は話題を喜次郎に戻した。
「久留米のかすりが世間さまから見放された話、去年の内から聞いてましたで。それで喜次郎はん、信用を回復する手立てはできましたんか」
「それがまだ・・・。仲間内で話し合いばしとるですが、よか知恵が浮かばんとです」
しばらく沈黙が続いた後に、増吉が仰向けになって目をつぶった。
「喜次郎はん、おまんの頭の中を、いっぺん空っぽにしなはれ。大掃除しますのや」
「頭の中ばですか?」
「そうや、頭の中を生まれた時のようにまっさらにしますのや。役にもたたん古いもんはほかして(捨てて)しまうこっちゃ」
「・・・・・・」
「その後に、代わりに入れるもんのことを考えなはれ。これまでとはまったく違うもんをな」
「まったく違うもんばですか」
「そうや。おまんが今やらにゃならんことは何か。悪いかすりを掴まされたお客に、今度は絶対大丈夫、どこよりも立派なかすりをお持ちします言うて謝ることどすな。再び皆さんを裏切るようなことがあったら、今度こそどんな罰でも受けます言うて」
「そこまではわかるとですよ。ばってん・・・」
謝った後の具体的な行動が思い浮かばない。
近江商人の図(日牟礼八幡絵馬)
「謝罪が済めば、今度は絶対に信頼してもらえる品物を、あっちこっちの問屋に預けますのや。それも大量に」
「大量にとは、いったい・・・」
「おまんは、かつて、日本国中を売り場と心得て商いをする言いましたやろ。それやったら、扱う売りもんも、売り場に似合うだけの量でなきゃ」
「そげなこつが、俺の力で・・・」
「何故、どうして?」
増吉が、起き上がりざま喜次郎の後ろに回り、両肩を力いっぱい掴んだ。
「無理でっか。原糸(いと)が間に合わんとでも言うんかいな、それとも人手が足りんとか・・・。はたまた、失敗したらどうしよう、とか」
「その両方・・・」
「かなんな、喜次郎はん。おまん、銭はよけい持っとりますやろ?」
突然話題が別のところに飛んでいったようで、戸惑った。
「・・・それはもう。熊本でばさらか儲けさせてもらいましたけん。ばってん、その銭の使い道がわからんとです」
「そこでんがな。新しくおまんの頭に叩き込むちいうもんは。持ってる金を全部吐き出しなはれ。そして、もう一度、人が歩くまっとうな道に戻りますのや」
「人の道ですか」
「そうや、むかし、南の国に紬(つむぎ)を織るお方がおってな。『人の道も織物の道も同じだ。道筋を間違えれば前には進めん』言うてはったそうや。喜次郎はんも、どこかで進む道を間違えたよって、足踏みばかりしてますのや」
その晩、宿に戻った喜次郎は、増吉の言う意味を十分理解できないまま、旅の疲れも重なって眠り込んでしまった。
人間の代わり
翌日、増吉に連れていかれたのは、近江八幡の町中から東へ2里(8㎞)ほどの金堂(こんどう)村(むら)(現東近江市五個荘(ごかのしょう))であった。村といっても道幅は広く、白壁と舟板張りの屋敷が延々と連なっている。
増吉は、中でもひと際大きな屋敷に喜次郎を連れ込んだ。大阪船場の外村興左右衛門の本家筋で、呉服など全国に販売網を持つあきんど屋敷だと教えられた。
川戸(屋敷に水路を引き込み洗い場兼防火用水に利用)が立派な表門を潜ると、中から番頭らしい男が出てきて二人を出迎えた。
「久しぶりでやんす」
男は、増吉に深々と頭を下げた。増吉もまた、丁寧な口調で喜次郎を紹介した。
近江商家の使用人
「この人は、九州の筑後からおいでの木綿屋さんどす。滅多にないことやさかい、近江のええとこをいっぱい見てもらおう思いましてな」
「わてらでできることなら、何でも言いつけておくれやす」
これほどの大きな屋敷の番頭から丁寧すぎる挨拶をもらって、喜次郎はどう言葉を返したらよいか戸惑った。増吉はというと、表に出てからも、知り合いの屋敷を覗いては、挨拶を交わした。
ひとしきり歩くと白壁が途絶え、田植え前の水田が広がった。その先の宮荘村に入ると、そこにも大きな屋敷が点在している。増吉は、間口の広い茅葺き屋根の建物に喜次郎を誘導した。中から、はた織りの音が聞こえてくる。
「ここはな、西村はんいいはって、上布(じょうふ)を織る店どす。麻も綿もはたで織ることに変わりはおまへんよってな。久留米にないもんをじっくり見ていっておくれやす」
増吉に続いて中に入ると、応対に出た主人がすぐに店内を案内した。広い作業場の壁にはいくつもの明かり取りの窓があり、女たちが織り上がっていく布と向き合っている。
「麻は大むかしから着物や蚊帳(かや)を、そう被り物なんぞにも、いろんなものに利用してきました」
主人は、作業場内を回りながら屈託のない話しぶりで、麻織りの工程や織工の配置などについて説明した。
「ここで働いとるおなごし(女性)たちは、ほかにどげな仕事ばしござるとですか」
作業場では、ガチャン、ガチャンと機械の音だけが激しく耳を打っている。
「娘たちの仕事は、ここに座って緯糸(よこいと)を経糸(たていと)の間に送り込むだけどす」
「麻を梳(す)いたり、染めたりするのは?」
「それは、別の人間の仕事」
喜次郎は、奇妙な興奮に襲われたまま作業場を後にした。
「どないしましたんや、そんなに黙り込んでしもうて」
外に出ても、考えこんでいる喜次郎に、増吉が背中を押した。
「人間がやる仕事ば機械にやらせてしまう。今まで考えたこつもなかったけんですね。近江というとこは、別世界ですね」
「ご維新からこの方、日本には外国の技術がどんどん入り込んできましたやろ。鉄道や電信もそうやけど、おまんの商いの織物も。政府は、外国との遅れを取り戻すためにあらゆる手立てをしてますのや」
久留米で考えていることが、時代遅れだと増吉に非難されているようで、喜次郎の口数はますます少なくなる。
二人は、西ノ湖を望む宿屋に落ちついた。
「喜次郎はん、歩きながらも言いましたやろ。政府は、ヨーロッパとかアメリカから、かつて日本にはなかった機械や技術を仰山輸入しましたんや。もう8年も前になるかな。フランスから何とかいう技術師を連れてきてな、上野国(こうずけのくに)(群馬県)の富岡ちゅうところに製糸場を造りはった。そこの機械は、すべて蒸気でモーターを動かす。モーターで動かされる機械が、人間の代わりに糸を紡ぐんどす。人間の何百倍もの力で機械が動くさかいな。そや、最近大阪と神戸の間を走るようになったあの機関車も蒸気が動力どすわな。機械が勝手に車輪を廻してくれる分、人間は人間でしかできんことをやってればよろしい。例えば頭を使うこととか」
富岡製糸場の女工
「絹はよかとして、俺たちの木綿もそげんなるとですか」
「大阪の堺では、蒸気で動かす機械で綿糸を紡いでますっせ。紡績所いうてな。糸が蒸気の力で紡げるようになれば、かすりを織るのに糸不足の心配ものうなりますな」
「ばってん、ほんなこつ、機械で紡いだ糸が役立ちますか」
「機械から生まれる糸の方が、均一でええもんがでけるんと違うか」
喜次郎の頭の中のもやもやが、少しずつ晴れていくような気持ちであった。
「久留米への帰り道にな、堺の紡績所に寄ってみなはれ。論より証拠や」
喋り疲れて、増吉が大きなあくびをした。
「あのう、増吉さん」
増吉と再会した折にと考えていた、「ある相談」を持ちかけようとした。
「何や、まだ何かあるんかいな。明日にしてや」
増吉は、間もなく大きな鼾(いびき)をかき始めた。
官営紡績所
喜次郎は、琵琶湖畔で増吉と別れた後、旧和泉国(いずみのくに)の堺戎島(さかいえびすじま)(現大阪府堺市戎島町)に建つ官営堺紡績所を訪ねた。大阪湾に注ぐ古川の河口で、群を抜く高い煙突から真っ黒い煙が勢いよく立ち昇っている。
堺紡績所は、明治元(1868)年に、薩摩藩がイギリスから2千錘(すい)ミュール紡績機を買い付けて建設した洋式の工場である。官営化は、政府が明治5年に薩摩藩から同紡績所を買い取ってからのこと。「ミュール」とは、イギリス人サミュエルが発明した精紡機のこと。「精紡」とは、粗糸を所要の太さの強力で弾力ある糸にするため、引き延ばしながら撚りをかけること(広辞苑)
旧堺紡績所の工場内と外観図(現地紡績所跡に展示)
喜次郎は、入場門で工場所長に面会を申し出た。所長の石河確太郎は、大和国(奈良県)の出身だが、反射炉建設以来薩摩藩の近代化に大いに関与してきた人物である。特に、イギリス留学生派遣や鹿児島紡績所の建設に深く関(かか)わった。
部下である富田の案内で工場に入ると、得体の知れない熱気が体中を包みこんだ。天井は高く、広い作業場では巨大な紡績機械が音を立てて作動していた。
「これがイギリスのミュール紡績機だ」
機械の音が喧(やかま)し過ぎて、富田の説明もよく聞こえない。作業している者はまばらで、彼らは時計の針のように、機械の表から裏へと体を動かしながら目を配っているだけ。何よりびっくりするのは、2000錘もの重厚な紡績機械を動かしているのが、蒸気機関(タービン)であることだった。もちろん自分の目で見るのは初めてのことである。
「薩摩のお方は、どげんしてイギリスの機械ば買いなさったとですか」
いかに大名のお墨付きとはいっても、海の向こうのイギリスから、どうすればこのような大型の機械が日本に運び込めるのか、喜次郎には信じられないことであった。
「知っておろうが、ご維新の前に薩摩がイギリスと戦争したことがある(薩英戦争=文久3(1863)年7月)。その後イギリスとの和解が成立して、薩摩からイギリスへの渡航の道が開けた。慶応元(1865)年には、薩摩藩から19人もの藩士をイギリスに送り込んでな、あちらのものづくりを見て回ったもんさ。それも、幕府には内緒でだよ。一行は帰りに、製糸機10台と精紡機6台、それに技師7人を伴って帰国したのさ。それが日本最初の鹿児島紡績所というわけだ」
左:鹿児島紡績所 右:英国技士宿所(異人館)
鹿児島の紡績所は、昭和30年に幕を閉じるまでの90年間、輸出産業の花形として日本経済に貢献し続けた。
「薩摩の話はそのくらいにして、これが、我が堺紡績所で紡いだ木綿糸だ」
所長室に戻って、富田が部屋の陳列台に並べられた小から大までの太さの糸を説明した。
「これからの久留米では、紡績糸が大そう重宝がられると聞いた。当方の糸を使ってもらえればありがたいのだが。国営の工場で紡いだもんじゃけ、品質は保障済みである」
「私どもとしましても、これから先、原料糸が足りなくなることはわかっとりますけん、その節はぜひ」
増吉の言う「日本国中を相手にする大きなあきんどになるためには、扱う売りもんの数を今の百倍、いや千倍にも増やすことを考えなあかん」を思い出した。
「それから・・・」
富田の話は、まだ終っていなかった。
「せっかくの帰り道だ。備中(びっちゅう)の玉島紡績所にも立ち寄ってみるがよい。あちらの紡績機械も我が方と同じ2千錘で、政府から下げ渡されたものだ。きっとそなたを歓迎してくれると思うぞ。紹介状を書いておこう」
喜次郎は、堺の港から機帆船に乗り、明石海峡を経て玉島の港に着いた。港には大小さまざまな貨物船が停泊していて、荷の揚げ下ろしをする人夫が忙しそうに行き来している。玉島港は、県内最大の備中綿の集積地でもある。
港に降りたった喜次郎は、早速玉島紡績所の事務所を訪ねた。広大な敷地にはいくつもの工場が建設中であって、活気がみなぎっている。
左:玉島紡績所 右:現在の玉島港
堺紡績所の富田に認(したた)めてもらった紹介状を示すと、田辺と名乗る物腰の柔らかい支配人が応対した。
「国武さんには、私の方からもご相談したいこともありましたので、丁度よかった」
堺に続いて巨大な紡績機械を目の当たりにし、興奮冷めやらぬうちに相談と言われても、戸惑いの方が先に立つ。
「相談というのは、貴方に当社の役員に加わって欲しいのです」
「俺がですか」
「そうです。久留米でのあなたのお仕事ぶりは、近江のお方からもよう聞いております。これからの木綿産業において、あなたのような目利きのよいお人が経営陣に加わってもらえたら鬼に金棒かと」
「ばってん、俺には久留米での仕事が・・・」
「もちろん、もちろん。あなたをここに縛っておこうなんて考えているわけではありません。時々の役員会に出てきてもらい、あとは郵便や電信で・・・」
「お答えする前に確かめたかことがあるとです」
「何なりと」
「こちらの紡績糸ば優先的に久留米絣に回してもらえるかどうかです。それから、久留米絣に適した糸になるよう、私の考えも取り入れてくれるかどうか・・・」
「当然です。そのためにあなたを役員にお迎えするのですから」
行きの山陽道と違い、九州に帰る喜次郎の足は軽かった。今回の旅で、失われた久留米絣の信用を一挙に取り戻せそうな気がしてきたからである。
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