第6章 古きに決別

 同業者の結束  作業場が工場に  財の活かし方  職工女のストライキ

同業者の結束

 喜次郎が長旅から戻ってきたのは、明治12(1879)年の秋であった。3ヵ月の月日を費やして、近江から大阪、岡山と巡ってきたことになる。
 帰ってみて、久留米の町の様子は出かける前と何も変わっていなかった。西南戦争終結から2年も経つのに、通町の閑古鳥は未だ鳴き止んでいない。この間に、夜逃げした同業者が何人もいると久次が告げた。国武商店の売り上げは全盛期に比べて激減したと、妻のたつえが嘆いた。
 帰郷した翌日の朝早く、喜次郎は寺町の心光寺(しんこうじ)に出向いた。亡き父親が眠る国武家の菩提寺である。

久留米寺町心光寺

「魚屋ば止めてかすり売りになってから16年が経った。俺も何とか一人前のあきんどになれたかなと思うておった矢先に、落とし穴にはまってしもうた。ばってん、ここで白旗(しらはた)ば揚ぐるわけにはいかんとたい。国武ば元の繁盛する店にしたか。そのためにも、俺が久留米絣の業界ば引っ張らにゃならんち思うとる。親父、応援してくれ」
 目をつむったままで墓石に語りかける喜次郎を、寺の住職が、庫裏の窓からいぶかしげに眺めていた。
「あん人たちば呼んでこい。大事な話しがあるち言うて」
 帰郷して10日経ち、ようやく喜次郎が腰を上げた。久次に命じた「あん人たち」とは、本村庄平や岡茂平、それに松井儀平ら同業者のことである。岡茂平は江戸時代から続く木綿問屋の三代目で、喜次郎より10歳年上の長老格。松井儀平は、椎茸の問屋も兼ねた
 大店(おおたな)の主であった。その他数人の顔なじみが揃った。
 沈み込んだ久留米の町をどう立て直せばよいのか、妙案を出す者もいないままに、時間だけが経過している。彼らは、喜次郎の帰郷待ち状態になっていたのだった。
「長いこと留守ばしたない」
 喜次郎が何を言い出すのか、期待と不安が入り混じる国武合名会社の応接室である。なかなか具体論に入らない喜次郎の態度に、一同のいらつきが治まらない。
「失うた信用ば取り戻すには、木綿業者が雁首(がんくび)揃えて、世間さまに『ごめんなさい』ち頭ば下げるしかなか」
「同業者が雁首(がんくび)そろえるち言われても、この筑後には、問屋から機屋・織屋まで何百人(軒)もおるとばい」
 早速庄平が疑問を投げた。
「何百人おろうが、全員が加わる同業者の組合ばつくらにゃならん。みんなでつくった規約に違反したもんは、組合から追放する。追い出されたもんは、二度と同じ商売には戻れん規則ばない。そうすりゃ、抜け駆けするもんも出らんはずたい」
 出席者は、背負わされる荷物の重量が次第に増していく気分であった。間を置かずして、喜次郎の口から次なる策が飛び出した。
「この度の信用失墜の原因の第一は、三益屋が粗末な原料糸ば使うとったことにあった。今後はそげなこつがなかごと、紡績会社の糸(紡績糸)だけば使うごとしたらよか。それからもう一つ。評判の悪かった染料についても、久留米周辺と阿波(徳島)で採れた地藍(じらん)しか使わんことにする」
一瞬間をおいて、喜次郎が更に力を込めた。
「まずは、これまで百姓の嫁や娘にやってもろうとった織替制度(おりかえせいど)ばやめる」
 喜次郎のこの一言で、一同重くなった荷物に耐えられなくなった。
 喜次郎が言う織替制度とは、商人(機屋(はたや))が、原料の綿糸などを農家に与え、農家は織立・染色いっさいを行い、織りあげた製品に対して、機屋が原料をもって支払う方式のこと(久留米市史第3巻P303 )。従って、織りあがった反物と交換に、機屋から受け取る綿糸との差額が農家の純収入ということになる。
「それは無茶ばい」
 これまた庄平が、上ずった声で異を唱えた。
「もう少し辛抱して、俺の話ば聞かんね。これまでは、染めから織りまで、嫁や娘にやらせとったろうが。じゃけん、出来上がった品もんもてんでんばらばらじゃった。そのことが、三益屋のごたる人間に、付け入る隙ば与えてしもうた。そげん思わんかい」
 近江から堺、玉島を回っての帰り道、考えてきた再興策を述べた後、喜次郎が大きく息を吐いた。
 出席者の一人豊田宗三郎が、重たい口を開いた。
「糸ば国内の紡績糸にするとはよかばってん。魚喜さんに、紡績糸のあてはあるとかい」
「大丈夫、俺が堺の官営紡績所と話ばつけてきたけん。他にも、岡山の玉島紡績所から久留米絣に合う糸ばつくってくれるちいう約束もとった」
話が再び織替制度の廃止案に戻ると、空気がまた重くなる。
「織替ばやめるち簡単に言うばってん、やめた後どげんなると?」
 庄平が、腕組みしたまま喜次郎に質(ただ)した。


農家のはた織りが盛んだった八女地方

「括(くく)りから染めまでの作業ば、みんな機屋(はたや)がやることになる。機屋で仕上げた糸ば、これまで通り農家に持ちこむとたい。俺が見てきた近江では、ずっと前からそげんなっとったげな」
「・・・・・・」
「織り手は、機屋から持ち込まれた原料糸(いと)で、言われたとおりに織っておればよかと。織った分だけ、機屋が手間賃ば払う」(賃労働の導入)
 続け様に飛び出す喜次郎の提言に、話をどう整理したらよいものか、出席者はお互い顔を見合わせるばかり。間をおいて、次に疑問を投げかけたのは、長老格の岡茂平である。
「織替制度ば止めるちは、ちょっとばかり無茶過ぎらんか。百姓の嫁さんや娘どんが黙ってかすりば織るのは、あん人たちが農作業の合間に糸ば染めて、我がよかごつ(自分の好きなように)織るところに旨味があったつじゃろもん」
「そうたい。嫁ごどんが持ち込まれた糸ば織るだけの仕事になったら、我がよか時間にちいうわけにもいかんごつなりゃせんか。第一、それじゃ仕事しておっても面白うなかろう」
 茂平の言い分に、庄平も松井儀平も同調した。そのくらいの反応は、喜次郎には想定の内だった。
「そげなやり方ば根から改めんじゃったら、久留米絣にあしたはなかち思うとたい。いつまっでん(いつまでも)徳川さまの時代のやり方じゃ、通用せんこつが今度の旅でようわかった。かすり屋も、糸ば紡(つむ)ぐもん、糸ば括(くく)るもん、括(くく)った糸ば染めるもん、そして織るもん、織ったかすりば売るもんと、それぞれが別の人間でやるようにならんといかんとたい」(分業化)
 近江で増吉に説かれた文句を、オウム返しで喋っている自分が、内心おかしかった。
「そげん、うまいこといくじゃろか」
「いかせにゃならん。世間さまから失うた信用ば取り戻すとには、同業者がいっしょくたん(一心同体)になってお詫びば言わにゃならん。これからは絶対に悪かかすりは売りまっせんち誓わんことには」
「そこまでするか」
 今度は、岡茂平が目を丸くした。
「世間さまは、俺たちがそんくらいの覚悟ば見せんこつには、絶対に許してくれんち思う」

 喜次郎の言い分に賛成した同業者たちが走り出した。久留米の町中から上妻・下妻郡(八女郡)へ、更に三潴郡から三井郡・御井郡へと、筑後平野を隈なく這いまわる。その甲斐あって、3ヵ月足らずで、ほぼすべての販売業者と機屋・織屋が同業組合結成に賛同した。
 年が明けて明治13(1880)年7月。かすり販売業者で組織する「千年社(せんねんしゃ)」と、紺屋など製造業者の「緑藍組(りょくらんぐみ)」が同時に発足した。8月2日、喜次郎ら世話人が福岡県庁に提出した願書の写しが残っている。(以下要約)
「近年種々の染料を使い、或いは洋糸(輸入唐糸)を混用して、古来の声価を墜し販路の渋縮を生じたので、これを改善し、名誉を挽回するために、かすり商と紺屋(機屋・織屋)が団結し、本藍以外の染料を使い、また洋糸を混用したかすり製品は決して売買しないこととし、規則を取り決めた」と。
 組合結成以降売り出すかすりには、「緑藍組」と「千年社」の2種類の章票が貼り付けられた。 章票には「久留米かすり製品=合格」と記してある。
 同業組合の結成後は、かすり業界の作業も一変する。章票の意匠から製作・貼り付けまで、組合員が自ら手探りで当たらなければならない。販売業者の手持ち商品を組合の監査員が吟味して、1反ごとに正保証つきの章票を貼りつけ、各地の問屋に手数料を払って販売を委託していった。
 章票には、「もし不正品がある場合は返却を認め、弁償する」の誓約を記してのことであった。それまでの取引は買取りが原則であったため、委託販売は久留米のあきんどにとって大変な決断だったといえる。
 組合結成後の久留米絣は、関門海峡を超えて、山口県の馬関、長府、船木、小郡、宮市、萩などに持ち込まれた。
「預ることは預りますばってん、あれだけ評判を落とした久留米ですけん、果たして客が手にとってくれますやら」と消極的な問屋には、納得してもらうまで何度でも頭を下げた。
 結果は予想を遥かに超えることに。売り上げは、組合結成から半年経過して、西南戦争以前の域に戻した。そうなると、商いの範囲を山口県から中国・四国全土へ、更に大阪・京都・名古屋へと一気に広げていくことになる。

作業場が「工場」に

 販売業者が得意先に委託販売を頼んでまわる頃、喜次郎は番頭の久次に対して、次の一手を指示した。国武合名会社飛躍のための具体策である。
「なるべく広か土地ば探せ」
 喜次郎は、戸惑う久次に言い放った。
「これ以上品不足が続いたら、西南の役後に逆戻りたい。早よう工場ば造らんと」
「工場ば、ですか?」
「そうたい。どげなおっか(どんなに大きな)注文にでも応えられるくらいの工場ばない」
 喜次郎の言う意味を、久次とたつえは十分に呑み込めないでいる。
「あんた、そげなおっか(大きな)工場ば造って、ほんなこつ(本当に)うまくいくとですか」
 女房なりゃこその心配である。
「2~3日前に近江から器械が届いたろ。あれは板締器械ちいうて、「絵糸書」の前の「経尺づくり」のときに使う便利な道具たい。大和(奈良)とか近江では、大むかしから似たようなもんば使うとったらしか。この器械に少しばかり手を加えりゃ、今までの作業時間の半分ぐらいは縮まるはず。これも、今から造る工場で使うもんの一つ・・・」
「大将、訊きますばってん。うちの会社は、かすりば売る問屋だけじゃのうて、かすり織りまでするとですか」
「かすりば織るのは、今までどおり百姓の嫁さんとか娘どんにやってもらう。うちの工場でやることはその他の作業たい。糸括りから染め方まで全部」
「問屋が紺屋(こうや)の仕事ば、・・・ですか」
「そうたい」
 自信たっぷりの喜次郎に、十分納得できない久次は、黙って従うしかない。


国武工場内部

「それで、大将が言うように紡績糸は都合よく手に入りますじゃろか」
喜次郎が同業組合で言い放った「国内紡績糸」については、もう一つ不安が拭
えていない久次である。
「大丈夫たい。堺の紡績所も玉島も、国策の工場じゃけん。それに、玉島紡績所からは俺に役員になってくれち」
「役員に、・・・ですか」
 今度は、たつえがびっくり声を上げた。
「そうたい。俺の好きなごと、撚度(ねんど)の高か糸ば作ってくれるならちいう条件で引き受けてきた」
「役員になるなら、お金も出すとでっしょ」
「そりゃいくらかはない。ばってん、これで、久留米絣に大量生産の目途が立つ」
 喜次郎が久次に、工場建設地について指示を出しているとき、40歳がらみの着流し姿の優男(やさおとこ)が入ってきた。
「おお、藤助しゃんじゃなかね。よかとこに来てくれなさった。あんたが考え出しなさった縊(くび)り機のことば、今嫁ご(妻)と番頭に話そう思うとったとこたい。こん人はな、久留米で一番の発明家たい。それだけじゃなか」
「よかですよ、それ以上のことは言わんでん」


斉藤藤助

 喜次郎に紹介された男は、頭を掻きながら上がり縁に座り込んだ。
「久次や、店のもんも、知っておった方がよか。こん人はな、小がすり模様ば考えなさった牛島ノシさんの孫の、キクノさんのご亭主の斉藤藤助さんたい」
 牛島ノシは、上妻郡(こうづまぐん)国武村で微妙な小柄模様のかすりを編みだした「国武絣」の創織者。大塚太蔵の絵がすりとともに、久留米絣の商品価値を一気に押し上げた功労者である。
「こん人の奥さんは、ノシさんの孫だけあって、なかなかのはた織り上手たい。今じゃ当たり前のように出回っとる、引通し(ひきとおし)や中割(なかわり)、それに木微塵(みじん)・散し微塵(みじん)・箱微塵・角菱・丸菱・平菱なんぞ、みいんなキクノさんが考えなさった柄模様じゃけん。あれもこれも・・・」
「あれもこれもって、なんですか、大将」
 聞き手の久次も、かすり織りの奥深いところを覗(のぞ)くような気分になっている。
「キクノさんの考えだされたもんの半分は、ここにおらす藤助しゃんのここから出たもんじゃけん」
 喜次郎は、大げさな仕草で自分のこめかみに人差し指を押しあてた。


小がすり模様

「またまたおどん(私)ばそげにおだてなさって。ばってん、自分で言うのも変ばってん、おどんが今度発明した縊(くび)り器械がほんなもん(本物)になったら、たまぐる(びっくりする)ごつ作業が捗(はかど)りますばい」
「そげんたい(そうです)。板締器械の次は手括(くく)りばどうにかせんと能率はあがらんち思うとった。そこば、藤助さんの頭が解決してくれるち」
 斉藤藤助が考えた織綿機(絣縊機=絣織綿器械)とは、従来の針絞り法を改めたものである。その効果は、これまで1人が1日にこなす括りの量が1反内外だったものを、一躍25反まで増加することに成功させたもの。そのことによって、これまで1反あたりの縊(くび)り賃が17銭から18銭かかったものを、僅(わず)か3銭5厘にコストダウンする目途もついた。

財の活かし道

 時は明治14(1881)年に進む。国武喜次郎35歳の働き盛りである。長男金太郎も8歳に成長した。
「新しい事業のために、儲けた金を全部つぎ込みなはれ」
西南戦争で得た財の活かし方を、鍋屋の増吉が喜次郎に伝えた。信用失墜の痛手から立ち直った今が、近江商人から得た教えを実行に移す時だと喜次郎は考えている。
 近江の上布(じょうふ)織物工場で見た作業員の分業化や、大阪・堺での蒸気機関を原動力にする大規模紡績工場に刺激を受けて、久留米でのかすり織りの工場化にも心が燃えている。自前で木綿が織れれば、これまでそれぞれで織りあげていた反物を均一化できる。また、需要過多に対しても、自らの働き次第でいくらでも対応できる。かすり織りの工場化は、久留米絣を全国規模の銘柄に押し上げるために、不可欠の条件であるとの確信を持った。
「それなら、百姓の嫁さんたちは・・・」
 次から次に新しい方針を聞かされる番頭久次の頭も整理がつかなくなった。


国武合名会社の店先

「農家で織っとる女たちをうちの従業員にすればよか」
「・・・・・・」
「わからんか。農家の嫁さんや娘には、今まで通り自分の家ではた織りばしてもらう。ばってん、身分は国武の雇われ人ちゅうこったい」
「ばってん、百姓の嫁さんたちが別々に織れば、やっぱり別々のもんがでくるでっしょもん」
久次の重ねての質問に、喜次郎の方もいらだち気味である。
「何べん言うて聞かすればわかるとか。嫁さんどんが今までやっておった織り以外の、括(くく)りから染め方までの作業ば、全部うちの工場でやるとたい。織る前の糸が同じもんなら、でけた(出来た)反物も同じになろうもん」
「・・・・・・」
「めんめん(それぞれ)の家で織る女のことは、『自宅織工』とでも言おうかいの」
 括りから染め作業までをすべて国武の工場で拵(こしら)える。拵えた糸を、契約している自宅織工の家に運び込む。久留米地方における、マニュファクチャー(工場制手工業)と呼ばれる生産態勢のスタートであった。
 この時喜次郎の頭には、計画を進めていった先の織り手の利害や感情までを察する余裕はなかった。

 間を置かずして、「大将、工場の用地が見つかりました」と久次が告げた。通町の本店から目と鼻の先の十軒屋敷跡(日吉町)と篠山の城跡近く、それに松ヶ枝町の3ヵ所だという。喜次郎は、日吉町には染物工場を造り、篠山と松ヶ枝町に織物工場を建てることにした。通町の国武商店の本社も、販売員と事務要員で一気に膨らんだ。


国武第二工場があった松ヶ枝町あたり

 番頭の久次は、工場に必要な織工を確保するために、店員総動員で田舎を回らせた。狙いは、農家の次男坊や嫁入前の娘を取り込むことである。自宅織工として契約する農家にも、やはり店の販売員が出かけて説明した。「それでは自分の時間が自由にならんようになる」と渋る嫁には、「今後は安定した現金収入が得られるごとなりますけん」の一点張りで説得した。
 商品の均一化をはかるためには、雇い入れた職工に、徹底した技術訓練が必要となる。
「簡単なことたい。熟練しとる職工ば、どこかの織屋から引き抜けばよか」
 喜次郎の助言で、久次は大石峯吉と榛塚(はりつか)市造を店の取締兼教師として雇い入れた。大石らには、技術指導を施すだけではなく、嫁入り先でも国武織物工場の自宅織工として働くよう誘導させた。せっかく一人前に育てた織工を、別の店に引き抜かれたのではたまったものではないからである。
 こうして組織された国武工場に属する自宅織工の数は417人(明治14年)に及んだ。また、並行して進めた農家への織機の貸し出しも420台に昇った。

織工女のストライキ

「義姉(あね)さんの体の具合がようなかげな」
 母のヒサが、実家のサヨの体調を心配している。
「永いことご無沙汰ばしとるけん、見舞いかたがた行ってみるか」
 翌日喜次郎が出向くと、伯母は縁側に座り込んで庭を見詰めたままである。
「何食うても、うもうなかもんの」
 喜次郎に手を握られるなり、サヨの目尻に涙がにじんだ。
「伯母(おば)ちゃんらしゅうもなか。しっかりせんね。まだまだ老け込む歳じゃなかろうが」
 元気を出させようと、おどけ調子で挨拶するが、サヨの表情は空(うつ)ろなままである。
「久次が頑張ってくれるけん、店の方はうまくいっとるばい」
 次男の久次に話題を移してみる。
「そうね、よかったない」
 サヨの声には抑揚もない。帰り道、甥の富郎が追いかけてきた。
「ごめん、ごめん。田んぼに出ておったもんで。ところで・・・」
 富郎は、声を細めてサヨの具合を打ち明けた。
「昨日川瀬のお医者さんに連れて行ったもん」
「それで・・・」
「よか返事はもらえんじゃった」
 富郎の声が更に小さくなった。
「悪かとか、伯母ちゃんの体は」
「お医者さんも、はっきりは言いなはらんばってん。どうも腹ん中に悪かできもんがでけとるごたるち。あの調子じゃ、お母しゃんもそげん長うはなかろう」
「そりゃ大変ばい。伯母ちゃんにもしものことがあったら、久次が腑(ふ)抜けてしまうが。それに俺も」
 幼い折から何かと頼りにしてきた伯母である。彼女のもとにとって返そうとする喜次郎を、富郎が止めた。
「お前が血相変えて戻ったら、勘の利くお母しゃんのこつじゃけん、自分の体が悪かこつに気がついてしまうが」
「ばってん・・・」
「こっちでうまいことやるけん。・・・それより喜次郎」
 富郎が、話題を替えた。
「かすりば織らせとる村中(むらなか)の嫁さんが、ばさらかはらかいとる(怒っている)ぞ。何でも、染屋が染賃ば勝手に上げたち言うて。それから、国武が織替えばやめたけん、ただのはた織り女になり下がった言うて。もうはた織りはしとうなかち」
 喜次郎は、伯母の方にも未練を残しながら、織り手の家を訪ねた。
「目茶苦茶ですばい、魚喜さん」
 喜次郎の顔を見るなり、伯母が紹介した織り手の野上ゆき子が噛み付いた。彼女が怒っているのは、設立したばかりの緑藍組(りょくらんぐみ)に加入した紺屋(こうや)が、それまでの染代を一方的に値上げしてきたというのである。値上げの分、織工の実入りが減る計算である。
「あんたの伯母ちゃんに頼まれて始めたばってん、こげな目に遭うくらいなら、もうはた織りはしとうなか」
 野上ゆき子の怒りは治まりそうにない。そうでなくても、緑藍組に加盟した機屋は、織り手のことを犬か猫のように怒鳴り散らすと言う。それ以上に、彼女らはこれまで農家の副業としてやってきた織替方式が壊される不安に怯えているのであった。
「もうちょっと、辛抱ばしてくれんね。そのうち、うまくいくごとするけん」
 喜次郎はこのとき、ゆき子たちの問屋や機屋に向ける気持ちが、憎悪にまで高まっていることに気が付いていなかった。全国的に蔓延(まんえん)しているインフレーションも伴って、染代の値上げと織替制度の廃止は、彼女らにとって死活問題だったのである。
 それから間もなくして、藤山から伯母の訃報が届いた。

「織り子たちの腹掻(はらか)き(怒り)ようは、尋常じゃなかね」
 訪ねてきた幼なじみの与平が、染織業者で組織した緑藍組と在(田舎)ではたを織る女たちの間で、一触即発の様相をなしていると話した。
「そうたい、俺も田舎のおばちゃんたちにきつう怒られとる」
「日本のあちこちの織物工場で女工どんによる同盟罷業(ストライキ)が起こっとるちは聞いとったばってん、まさか筑後まで飛んでくるとはない」
「せっかく工場が動き出そうというときに、困ったもんたい」

 団体行動に出た織工女たちの掲げるスローガンも、「染賃の値上げ反対」から「織り手の賃金制に反対」へとエスカレートした。ときあたかも、インフレーションの嵐の中にあった。極端な不作に苦しめられる農村部の疲弊が、彼女らの怒りに油を注ぐことになったのである。
 明治14(1881)年の織工女らによる同盟罷業は、日を置かずして筑後一円に燃え広がった。久留米の広場に集まった人数は、実に460人と記録されている。集会で決議された内容は、「向こう20日間のかすり織り停止」であった。燎原の火はさらに広がり、次に開いた集会では800人に膨れ上がった。
 これまで経験したことのない、労働者の団体行動に恐れをなした緑藍組の代表は、御井郡と三潴郡の郡長に調停を依頼するが、燃え盛った炎は容易には鎮まりそうになかった。
「ここは魚喜の出番ばい」
 庄平が、千年社会長に収まっている豊田宗三郎とともに、喜次郎との膝詰め談判に及んでいる。3人が額を寄せ合っているところに番頭の久次が駆け込んできた。
「緑藍組が真っ二つに割れてしもうた」
 紺屋の面子(めんつ)を立てながら、織り子の怒りを鎮めようと考える喜次郎らの思惑は、緑藍組の分裂によって頓挫(とんざ)してしまった。
 明治14年7月13日、久留米の町に荒れ狂った労働争議の火は、紺屋の染賃値上げ撤回ということで一応の収束をみた。だが、「織替制」から「織工の賃金制」への移行はそのままにしたままだったので、経営者と労働者双方に深い遺恨を残すことになった。

次ページへ続く