久留米絣の井上伝 


2014年6月22日

 孫の宮参り    横綱の羽織   出張教授     仏にすがる

 第9章 老いの一徹
1833−1868

孫の宮参り

 同じ屋根の下で暮らすイトと儀助夫婦には、女の子が2人生まれたままである。イトの仕事熱心なのは良いとして、もう少し子づくりにも熱心であって欲しいと、伝は願っている。
 弘化元(1844)年の秋、伝のもとに吉報が飛び込んできた。稲益家に養子に入っている兵太郎の嫁が、男の子を産んだという。57歳にして初めて抱ける男の孫誕生であった。「外孫」ということにはなるが、半吾と名づけられた赤ん坊が愛おしくて仕方がない。入り浸って孫を抱く姑を、うっとうしく感じている嫁の気持ちなど無視して通い続けた。
「もうすぐ日明けたいね。今度は祖母(ばあ)ちゃんが、ばさらかよかきもん(すばらしく良い晴れ着)ば作ってやるけんね」
 半吾の宮詣りは、五穀神社でと決めている。「あのお宮さんなら、神主さんも懇(ねんご)ろだし、半吾の将来の健勝を約束してくれるから」というのが、嫁のミサキやミサキの親を納得させる殺し文句になった。
 そうなると、宮参り用の晴れ着のことが頭から離れなくなる。いつもなら、注文に応じてさっさと柄の案が浮かぶのに、自分の孫のこととなると、なかなか妙案が浮かんでこなかった。
作業場では今日も娘たちが、埃(ほこり)と人いきれを我慢しながら、黙々と働いている。ある者は、庭に出て糸括りに余念がない。
 この頃の伝は、3丁目の本村木綿商店に出かけて娘たちを指導する機会が多かった。こちらには入りたての娘が多くて、下絵から括り、染め、織り、整反までの基礎を教え込むのにも教え甲斐がある。庄兵衛から「やっぱりお伝さんでなきゃ」とお世辞を言われる心地よさも手伝って、通う足取りも軽かった。
「織屋ばおイトちゃんに任せて、伝さんは弟子養成に専念したらどげんね」
 顔を合わせるたびに、庄兵衛は伝をはた台から下ろそうとする。
「なしてね?うちはまだまだ若っかもんには負けておらんよ。今も、孫の宮参りのきもん(着物)のことで頭がいっぱいになるくらいじゃけん」
 とは言うものの、視力はだんだん衰えていくし、長い時間の作業は肩や腰に応えるようになった。機会をみて作業場の一切をイトに譲ることも考えている。だが、そのことを誰かに話してしまえば、途端に生きる意欲まで失ってしまいそうで怖かった。「半吾の宮参りが済んだら・・・」と、“その時”を密かに狙っているところだが・・・。
「気分転換に、いっちょうほかのことでもやりますか」と言うなり、窓際のいざり機に座りなおした。半吾の宮参りまで残り半月しかない。窓の外は黒雲に覆われていて暗い。指先がかじかんで思わず両の掌に息を吹きかけた。師走も半ば(新暦だと1月下旬)である。


明治期の四つ目絣
(久留米絣技術保存会所有)

「雪ですばい、先生」
 隣りで作業している娘が知らせた。
「ほんなこつ(本当)、ぼたん雪たいね」
 言われて窓を開けた。凍りつくような北風が作業場に踊りこんで来た。
「寒かばい、お母しゃん。みんな風邪ひくが」
 奥にいるイトが寄ってきて窓を閉めようとする。
「待たんの。今よかとこじゃけん」
 イトの手を払って、顔を外に出した。灰色の上空から無数の黒い粒が降りてくる。見ようによっては塵(ごみ)ともとれるし、綿毛(わたげ)のようにも見える。地面に落ちてすぐに溶けるもの、庭の松葉にとまったまま残るものいろいろである。
「もうよかばい、閉めても」
 何年ぶりだろう、雪が降る様をつぶさに観察したのは。ひょっとしたら、生まれて初めてかも知れない。
「そうたい!」
 伝の叫びに、作業場中の目が集中した。伝は慌ててはたを離れると、絵台と向き合った。雪の降る様子をかすり地に載せたい。12歳の頃、祖母の傍らで取り付かれたように古着を解き、糸についた藍(あい)の斑模様(まだらもよう)に魅せられて霰(あられ)の降る様を織り上げたあの時の興奮が蘇った。
 こうして出来上がったのが、孫の半吾に着せる宮参り用の「四つ目」模様であった。
「きれいか晴れ着ば作りなさったですね」
 五穀神社の石橋を渡ろうとするところで、知り合いの主婦に声をかけられた。
「本日はお日柄もよろしゅうて・・・」
 すれ違う都度、参拝客から、伝が抱いている孫と、孫に着せた四つ目模様が交互に見比べられた。


五穀神社境内

 お城では、9代目有馬頼徳(よりのり)の死で、藩主の座が有馬頼永(よりとお)へと移った。頼永は、伝が乳付の世話をしたあの矢作君(やはぎぎみ)である。
 藩の財政は、頼徳時代の借金がかさんで身動きのとれない状態にあった。晩年の頼徳も、これまでの贅沢(ぜいたく)癖を改めて、五穀神社にあった能舞台を壊したり、好きな鷹狩りを自粛したりした。だが、そのくらいのことではどうにもならないほどの債務超過であった。
 頼永が藩主の座に就いた直後に、オランダ船が長崎に入港して日本の開国を迫った。幕府は、全国の藩主に対して沿岸の厳重警備を命じた。
先代の喪も明けぬうちの出来事に、頼永は大きな衝撃を受け、領内に緊急布令を発した。
 江戸在勤中の藩士に述べた布令の趣旨は次のとおりであった。
「異国船のことは未だに事情が定かでないが、事と次第によっては、今後どのような重大事態に至らぬとも限らない。ところが、我が藩の財政状態では重大事態に対処する費用をどうやって賄ったらよいか。まさに藩をあげて真剣に考えねばならない時である」と。
 立て続けに、藩士から農民・町民、神主・僧侶に至るあらゆる階層に、新たな倹約令が発せられた。


11代久留米藩主・有馬頼咸

○服装=衣服類はすべて木綿服を用い、髪飾りもべっ甲や銀細工の品など用いてはならない。また、手道具・履物類も、高価美麗なものは用いてはならない。
○住居=家作普請は、雨漏りとか住むにさしつかえる場合のほかは、行わないこと。
○冠婚葬祭=客を招いて派手に振る舞うことはやめ、近親者だけで質素に行うこと。
○芸事と興行=三味線や踊りなど遊芸の稽古は一切やめ、芝居・相撲・軽業などの興行も禁止すること。
○特例の廃止=これまで大庄屋・町別当及び分限者または大地主に認められていた絹服着用の特例を廃止する。
 頼永は、藩主自ら範を示すために、夫人とともに衣服の絹着用をやめて木綿服にしたという。違反者に対する摘発も進み、在方(田舎)の者90人が禁制品着用の罪で処罰された。
 町民から農民の日常生活に至るまで細かく規制される「大倹約令」は、その後平成の今日まで、「久留米の人間は倹約型」との代名詞をいただくほどに影響を及ぼした。「久留米の旧城下には郷土芸能が少ない」と言われるのは、その時の藩政がもたらした負の遺産なのかもしれない。
藩主有馬頼永は、財政再建に走る一方で、武士には武芸の鍛錬を、領民には産業に励むよう呼びかけた。また、江戸の屋敷内では洋式の大砲を造らせ、久留米の柳原にも工場を設けて各種の鉄砲を製造させた。
 そんな頼永(よりとお)の時代も、彼が急逝したために3年で修了する。後を継いだ弟の有馬頼咸(よりしげ)が、久留米藩の最後の大名となる。だが、藩主は代わっても、頼永時代の倹約布令が解除されることはなかった。

横綱の羽織

 半吾の宮参りを区切りにして、伝のはた織り現役は終了した。当初彼女が織るかすりは、単純に模様を並べただけのものだった。それでも街では、「霜降りのごとある」とか「霰(あられ)が降る姿に似とる」とか言ってもてはやされた。


井上伝胸像
(地場産くるめ展示)

 後に、大塚太蔵や牛島ノシが成し遂げた技法によって、それまで不可能とされてきた絵模様や小がすり模様が劇的に飛躍したのである。
「大丈夫だよ、お母しゃん。お伝がすりは誰にも負けたりはせんけん」
 イトが、追いかけてくる若者にたじろぐ母を慰めた。イトの長女トモが13歳に成長して、はた織りを始めた頃である。井上家では、女三代で織屋家業が継続されるのだと、娘が保証してくれた。
 はた織りの現役を退いて後は、自宅隣の作業場と本村庄兵衛の機屋を往復しながら、他家の娘たちへの指導に専念することが多くなった。伝が現役を離れたことを知ったかつての教え子たちが、入れ代わり立ち代りご機嫌伺いにやってくる。その度に備え置きのおこし(地方菓子)を差し出して歓迎した。心が和むひと時である。
「玄関にばさらかおっか(とても大きな)お客さんが見えとるよ」
 母屋でくつろいでいる伝をトモが呼びに来た。出てみると、背丈が優に6尺は超えそうな男が2人、天井を気にしながら、窮屈そうに立っていた。
「おいどんは、ご当地にお邪魔しとる横綱の褌(ふんどし)かつぎ(付き人)でごわす。横綱からお伝殿に折り入っての頼みがごわすゆえ、ご足労願えまいか」


小野川喜三郎の錦絵

 先日から五穀神社周辺に大相撲興行の幟(のぼり)が立っていることには気がついていた。看板力士は、横綱の小野川喜三郎と大関の伊達の海(だてのうみ)である。大検約令の最中でも、有馬藩主お抱えの力士ということもあって、大相撲だけは特別扱いであった。
 女人禁制の相撲見物ではあるが、伝もどうにかして見物したいと思っていた矢先のことで、大男の来店を歓迎した。早速娘のイトを伴って境内の仮小屋を訪ねると、昨日の褌かつぎが、横綱の部屋まで案内した。
「お伝殿の評判は、かねがね江戸におわす殿から聞いておりもした。久留米に参った縁で、是非とも羽織地を織ってもらいたい」
 横綱は、手持ちの扇子を広げて伝の前に置いた。扇面には、大鳥が飛ぶ様を背景に、「小野川」の力士名が施してある。
「この絵をかすり織りにしてはもらえまいか。わしらが久留米を去るまでに・・・」
 この小野川、琵琶湖畔の大津生まれで、ご当地久留米出身の小野川才助とは別人である。
 一行が久留米に滞在するのは僅か5日間であった。躊躇(ちゅうちょ)する伝に、後からイトが耳打ちした。
「ここは一番、お伝がすりの実力ば見せてやりまっしょ、お母しゃん」
 イトが考えるように、お伝がすりの評判を他藩にまで広げるまたとない機会である。下絵を描くことはそんなに難しくはないが、物が大き過ぎる。反物の場合、通常の幅は1尺(鯨尺1尺=37.9a)である。その幅を2割方伸ばして1尺2寸(45.5a)にしなければ、お相撲さんの着物としては仕立てられない。そんな大幅を織る織機など伝の作業場にあろうはずがない。
「大工ば呼んで造り直させまっしょ、お母しゃん」
 大相撲一行の滞在期間に仕上げることができるか、まさしく時間との戦いであった。作業場に戻った母子は、その日から寝ずの作業に突入した。借りてきた扇子をもとに下絵を描くのは伝の仕事、緯糸の編み上げから括りはイトがこなす。括り上がりを待って、紺屋の佐助が自分の作業場に持ち帰った。安政4(1857)年、井上伝は既に70歳に到達していた。
 一行が久留米を去る日、イトが出来上がった織物を届けた。横綱が喜んだのは言うまでもない。楽しみにしていた江戸相撲の見物は、次の機会までお預けとなった。
 横綱が母子で織ったかすりを着て、両国付近を闊歩する姿を想像するだけで、伝の頬は自然に緩んだ。


両国橋の花火

 人間古希を過ぎると、体の衰えと合せて気力も衰退する。それまでは、持ち前の気性で自らを奮い立たせてきたものが、それもかなわなくなってきた。幼い頃からともに過ごしてきた紺屋の佐助も、身代が息子から孫に移って、茶飲み友だちとして付き合う程度になっている。
庄兵衛だけは、相変わらず元気がいい。「四十、五十は洟垂(はなた)れ小僧たい」と威勢のよい言葉を発して、店のものを鼓舞する。「お伝さんに老け込まれたら、わしが困るけん」と、店に呼びつけては新しい図柄の考案を促した。本村商店は、今ではお伝かすりを一手に引き取ってくれる極上得意となっている。例え生産過剰でも、少々出来が悪くても、黙って引き取ってくれるのだから文句のつけようがない。
 伝が、店先で庄兵衛と図案を批評しあっているところに、痩せ型で精悍な顔つきの若者が現れた。
「おお、喜次郎か。よかとこに来たない」
 庄兵衛は青年を手招きして、伝に引き合わせた。大塚太蔵のときもそうだったが、庄兵衛という商人は、よほど人と人を引き合わせるのが好みのようである。
「こん人はな、お伝さんちいうて、加寿利ば考え出した人たい。こん人のお陰で、久留米ん織物はこげん盛んになった」
 最大級の褒め言葉で、伝を紹介した。


国武喜次郎
(久留米市史)

「またまた、庄兵衛さんいうたら、うちばそげんおだてて・・・。それはよかばってん、こん若っかもんはいったいどこのどなたですな?」
「そうたいね、お伝さんのことよりこん若っかもんのことば言わにゃない」
 庄兵衛が語るには、この若者、通町5丁目の魚屋の息子で、最近かすり売りを始めたばかりの喜次郎だと言う。若者のやる気を手助けすることに生き甲斐を持つ庄兵衛が、喜次郎に商売のイロハを教えているところだとも話した。
「魚屋は、どげん逆立ちしても、町の魚屋以上にはなれんですもんね。俺は、庄兵衛さんのごたる、よその国(藩)にも出かける商売人になりたかとです」
ここにもまた、恐れを知らぬ若者が出現している。国武喜次郎、後に「関西の機業王(きぎょうおう)」とうたわれ、全国に名を馳せる男である。

出張教授

「ばばしゃんにお客さんばい」
 母屋でくつろいでいる伝を、トモが呼びにきた。
「誰じゃろか?」
「うちが知らん人。何でも上野町の・・・」
「ああ、あのお人じゃろ」
 夫次八が健在だった頃、よく原古賀の店に立ち寄っていた、上野町(現久留米市大善寺町)の正之助だった。正之助は柳川街道筋で人馬問屋を営んでいる商人である。人馬問屋とは、街道筋で人足・馬・宿駕籠などを提供するサービス業のこと。
「お変わりもなく・・・」
 正之助の店は、柳川の立花家や長崎奉行所・日田代官所などを得意先にしているだけあって羽ぶりがよかった。以前伝の織屋に立ち寄った正之助は、細君や娘たちのために、かすりをしこたま買ってくれた。連れの店員が牽く荷車には、孫へのおもちゃなどが積まれていたことを思い出す。
「あの時のお孫さんは・・・?」
「もうあなた、立派な大人になりましてな。そうそう、今日立ち寄ったのは、末の孫娘のことでしてね」


大善寺川に架かる傘橋

 正之助の孫といえば、20歳くらいか。
「そうです、その孫娘にはた織りば習わせようと思いたちまして」
「なんでまた、そちら様のような大店(おおだな)のお嬢さまが・・・」
「これから先、時代が大きく変わりまっしょ。いつまで人馬問屋として贅沢(ぜいたく)な暮らしがでけることやら。かわいい孫娘が、将来にわたって暮らしに困らんために、手立てだけはしてあげといかんち思いまして。ジジ馬鹿とお笑いでしょうが」
 はた織りに夢中になっている間に、世の中は大きく動いていたのである。久留米藩の保護のもとで商売をしてきた正之助にして、近い将来の家族の暮しを考えなければならないとは。
「それで・・・」
「孫娘ば、お伝さんの弟子にして欲しかとです。ここに住み込ませて・・・」
「大店の箱入りお嬢さんば、こげなむさぐるしかとこにですか。それはいくらなんでもでけまっせん。それに、私はもうはた織りをやめたとですよ」
「それは残念だな。そこのところを何とかなりませんか」
 正之助も、諦めきれないでいる。
「よございます、それなら私が上野町のお宅まで出かけまっしょ」
 はた織りをやめてから、手持無沙汰(てもちぶさた)で気持ちが苛立っていたときだけに、伝の心が激しく揺れた。
「大丈夫ですか、伝さん。お身体の方は」
「いいえ、私がはた織りばするわけじゃありません。ここにいます孫娘ば連れていきますけん」
 本人の了解もとらないで決めてしまうところが、いかにも伝らしい。
「それに、遠かですよ、大善寺は」
「いくらなんでも、ここからお宅まで毎日通ったりはしません。ひと月くらい、孫といっしょにお宅に寝泊りさせてもろうて。それに・・・」
「それに? ・・・何でも言うてください」
「はい、お宅のご近所ではた織りば習いたか娘さんがおったら、呼んでください。お嬢さんといっしょに教えますけん」
 正之助も、伝の独り占めは世間的に聞こえが悪いと思っていた矢先で、申し出は渡りに船だった。
 多岐にわたるかすり織りの手順を、たったの1ヵ月間で教え込もうというのだから、伝にとっても厳しい日程であった。正之助の孫娘を含めて10人の娘たちは、半分悲鳴を上げながら最後までついてきた。
「ようやりなさったですね」
 久しぶりに通外町の自宅に戻った伝を、ユキエがねぎらった。そうこうするうちに、山隈村(やまくまむら)(現小郡市山隈)の庄屋と名乗る人物が訪ねてきた。
「ぜひ、うちの村の娘たちにも教えて欲しかとです。ご無理を承知で・・・」と、禿(は)げ頭を下げた。
「よございます。私のはた織りも、まだ筑後川の向こうまでは行き渡っておりませんけん」
上野町でのはた織り塾の成功に自信を深めたときでもあったので、伝はひと月の期限付きで承知した。今回もトモの都合を無視して、さっさと引き受けてしまった。山隈村では50人の娘たちに教えた。
 しばらくすると、筑後平野に張り巡らされた伝の弟子たちによって、あちこちの農家からはた織りの音が聞こえるようになった。

仏にすがる

 ユキエが駆け込むようにして入ってきた。
「どげんしたつね、そげん慌てて」
 伝が、向き直った。
「よか知らせですばい。お国(藩)じゃこの度、かすりば特産品にしてよその国でも売るごとしなさるげなですよ。お伝さんのかすりも、日本国中にいきわたるごとなるとです」
 世の中が慌しくなる幕末の元治元(1864)年。殖産興業政策を推し進める久留米藩は、久留米絣(この頃初めて漢字の「絣」の文字が確認できる)を「国(藩)産品」に指定した。1反につき1匁の流通税を課すとともに、保護策を講じて生産奨励に乗り出したのである。この時独占的問屋に指名されたのが、あの福童屋であった。そして久留米絣は、遠く大坂市場にまで送られることになった。
 ユキエは、伝の反応具合を無視してはしゃいだ。このところ、伝は胃の具合が思わしくなくて、寝たり起きたりを繰り返している。
「ユキエ、そんくらいのことで騒ぎなさんな。人間は人から褒められたりしたときが転落の始まりち言うけん」
「そげなもんですかね?」
 伝の反応の鈍さに、ユキエはいささか不満げである。
「うちと同じ歳のもんでも、うんと腰が曲がっとるもんもおろうが。そうかち思うと、八十(歳)になってもしゃんと腰が伸びとる人もおらす」
「お伝さんのごつね」
「そげなとこで相槌ば打たんでもよか。どこでその差が出るかち言うと、若っかときからの心の持ちようたい。お役人でも、威張り腐ってふんぞり返っとるもんには必ず罰があたって腰が曲がる。その反対に、常日頃から腰ば低うしとるもんは、いつまでも腰は曲がらん」
 同じ教訓話をユキエは何度聞かされたことか。「その話はもう・・・」なんて遮ろうものなら、その数倍もの話が待ちかまえていることを承知しているから、黙って終わりまで聞くしかない。

「これが、お伝さんの信心ですもんね」
 伝が静かになる時は、火鉢の中の灰を火箸(ひばし)でまとめて、そこに線香を2本立てているときである。その線香が燃え尽きるまで、「なんまんだ」の念仏を唱え続ける。
「神さんでも仏さんでも、お宮さんやお寺さんに行かにゃ拝めんちいうことじゃなか。こげんして、心の中で拝んどれば、仏さんに見捨てらるることはなか」
 これまた、80歳を間近にしての伝の口癖であった。はた織りや下絵描きをしていた頃が遠いむかしになってしまった最近では、五穀神社の鳥居を潜(くぐ)ることが多くなった。石橋を渡って拝殿に一礼した後は、隣に建てられている円通寺(神宮寺=神社に付属して置かれた寺院)の本堂に上がりむ。火鉢の前の念仏だけでは物足りなくなった時の、伝のパターンである。


伝が眠る徳雲寺

「どうか、イトの体ばお守りください」
 願いごとはその一点であった。イトの最近の痩せ様は異常である。心の臓(心臓)が悪いのか、それとも肺か。医者に診てもらえと言っても、「どうもなか」と言って従おうとしない。たった1人の娘に、もしものことがあったらどうすればよいのか、考えるだけで気が狂いそうになる。
 伝にとって、何よりも心残りは肉親の行く末であった。徳川幕府が崩壊し(慶応4年=1868年)、世の中が大きく変わろうとする頃、伝は臥(ふ)すことが多くなった。寝間には、佐助や庄兵衛がよく見舞いにきた。いつぞや庄兵衛の店で会った喜次郎もついてくる。
「もう、うちの命は長うはなか。そげんなったら、うちのもんのことばよろしく頼みます」
 来る客来る客に頭を下げた。
「お伝さんは不死身の人間じゃけん。そげん簡単に閻魔(えんま)さんがお呼びなさらん」
 庄兵衛もまた、同じ文句を繰り返した。
「そうそう、ここに来るとき、作業場ば覗(のぞ)いておる見知らぬおなごがおった。何でも江戸のお屋敷に上がっておったが、ご維新で久留米にやってきたとか」
 庄兵衛が、表での出来事を伝に告げた。


晩年の小川トク

「どこのお人じゃろか?」
「その人は、武蔵国で生まれなさったげな。久留米に来た理由(わけ)は訊かんじゃったばってん、えろう、はた織りが好きらしか」
 庄兵衛が話す女性とは、小川トクのことであった。トクは、まるで井上伝からはた織り人生のバトンを受け取るためのように、久留米の城下に現れた女である。

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