久留米絣の井上伝 


2014年6月22日

 伝の死    曾孫の時代

終章 追憶
1860−1969

 伝の死

 トモが、呼ばれて本村商店に出向いた。江戸時代も末期に入った慶応3(1867)年の師走である。トモは、製粉業を営む高松太平と結婚し、長男久吉を生んだ後も、通外町の作業場で母イトといっしょに働いている。
「トモちゃん、いくつになった?」
「二十六(歳)に・・・」
「そうか、二十六か。お前のばばしゃんが二十六の時には、新しか絵がすりに挑んどる時じゃったない」
 トモはこの時、自分が何の用で庄兵衛に呼ばれたのかわかっていなかった。
「ばばしゃんの命もそげん長うはなかろうけん。そこでトモちゃんには、お伝がすりの継承者としての心構えばもってもらわなきゃならんち思うて」
 突然切り出されて、トモはうろたえた。


明治期の本村商店

「私がですか?」
「そうたい」
「ばってん、お母しゃんがおらすですよ」
「お母しゃんの体もそげん強うはなかろうが。お前が今のうちにお伝がすりのことば残らず覚えて、お師匠さんち言われるごとなっとかんといかん」
 庄兵衛の店を出て作業場に戻ったトモが、改めて母イトの働く姿を見直した。心なしか身が細っているように見えるし、動きや手つきも以前のような機敏さを感じない。
「そげなことはなか、本村のおっちゃんに言われて、そげな気になっただけ」
トモは自分に言いかせた。
 伝が、人馬問屋主人の要請で出張教授に出かけた際、トモも助手として祖母に同行した。上野町が終ると今度は山隈村にも出向いた。あの時祖母は、織屋の主人のありようを自分に教えたかったのかもしれない。庄兵衛の話を聞いて、目の前を大きな物体が流れ去っていくような気分になった。
 山隈村を境にして、祖母の体力は急激に衰えた。朝ご飯が済むとすぐに切り花を持って円通寺に出かける。お昼時には計ったように戻ってくるのだが、午後は長火鉢の縁に額(ひたい)を押し当てたまま動こうとしない。眠っているのか目が開いているのかさえ、外の者には分からない。
「ばばしゃん、お茶が入っとるばい」
 トモが声をかけると、重そうに頭をもたげた。
「今死んだじっちゃんの夢ば見とった」
 祖父次八は50年も以前に亡くなっていて、トモは顔さえ知らない。
「死んだじっちゃんが、ばばしゃんに何て?」
「早よう、こっちに来いち。もう現世での用も済んだろうが、ち」
「嫌ばい、ばばしゃん。まだ死んだらでけん」
「うん、ばばしゃんもじっちゃんにそげん言うたさ。こげん寒か時に、三途の川ば渡るのは好かん、ち」
「そしたら、じっちゃんは何ち?」
「そんなら、温(ぬく)うなるまで待っとこ、ち」


井上伝の墓(寺町徳雲寺)

 縁起でもない話のどこが面白いのか、伝はトモに顔を近づけながら嬉しそうに笑った。それからの伝は、坂道を転がるように衰えていった。そして、最愛の娘イトや孫のトモ夫婦など家族に見守られて、82歳の生涯を静かに閉じた。徳川の世があっけなく崩壊した翌年(明治2年)の4月26日(新暦換算で6月6日)であった。通いなれた五穀神社内の円通寺が、新政府の神仏分離令によって取り壊された、丁度その時が伝の寿命の尽きる日ともなった。
「後の世まで名を残すお人は、わしら凡人とは違うもんたいね」
 庄兵衛がぽつりと呟(つぶや)いた。遺体に寄り添っているトモが振り返った。
「おじさん、うちのばばしゃんは、そげん偉か人ですじゃろうか」
「そりゃそうたい。自分が息ば引き取るその時刻まで、仏さまに頼める人じゃけんな。暑からず寒からずの季節に死にたか、ち言いよらしたとじゃろう。お伝さんちいう人は、やっぱり凡人じゃなかとばい」
 庄兵衛は、鼻水を啜り上げながら、血の気の引いた伝の頬を撫でた。
「おじさん、ばばしゃんのどこが、後の世に残るとですか」
トモも、この疑問は今をおいて訊く時はないような気がしている。
「お伝さんは、十二のときに、今の久留米絣の基になる霰模様(あられもよう)の織り方ば考えなさった。ばってん・・・」
「ばってん、何?」
「お伝さんの本当に偉かとこは、多くの娘たちにかすり織りば教えてきなさったことたい。お陰で、筑後一円じゃ、どこの家からでも、トンカラリンとはた織りの音が聞こえるごとなった。はたが織れんもんは、嫁にも行けんちゅうてな。織った分が暮らしに役にたつとなりゃ、百姓の嫁さんも夜鍋ば嫌がらん」
「はた織りを人に教えたことが、そげん立派なことですか」
「こんお人は、正真正銘の久留米の人間たい。自分が好きなことで、お国(久留米藩)のためになりたかち、心の底から思うてなさった」
「ばってん、ばばしゃんは、お寺さんば潰してしもうたお城のお役人は好かんち、死ぬ間際まで言いよりました」
 トモも、冷たくなった祖母の手の甲を撫でながら、庄兵衛に次の答えを促した。その時、盆いっぱいに載せた茶を持ったイトが、トモと庄兵衛の間に割り込んだ。
「祖母ちゃんも、とうとう、仏さんになりなさった」
 聞きとれないほどにか細い声で、伝の頬に右の掌を置いた。
「こんお人は、最後の最後まで、イトちゃんのことば心配してござった」
遠慮がちに嗚咽するイトの肩に手を置いて、庄兵衛がひと言。
「人間ちいう生きもんは、不思議なもんたい。お家のためとかお国(藩)のためとか言うて身を粉にして働きながら、やっぱり思うようにはならんことばっかりじゃ。ばってん、伝さんは、それでよかち思うとりなさった。その証拠に、ほら、お顔が笑っておるじゃろう」
 イトに語りかけるでもなく、トモへの答えでもない庄兵衛の独り言だった。それから、しばらく沈黙が続いた。その後に、また庄兵衛が伝に向かって呟(つぶや)いた。
「あんたは、筑後に住んどるみんなの恩人じゃ」
 伝の戒名は「釋尼聞忍信女(しゃくにぶんにんしんにょ)」。実家の菩提寺である寺町の誓行寺(浄土真宗)が管理する野中村篠原(現久留米市諏訪野町)の墓地に埋葬された。(その後、寺町の徳雲寺(とくうんじ)に改葬)

曾孫の時代

 両替町にある久留米絣同業組合の事務所では、2人のベテラン商人が語り合っている。国武喜次郎と本村庄平である。本村庄平は、養父庄兵衛が引退した後、本村商店と久留米のかすり業界を牽引してきた。西南戦争の暗い影も遠ざかり、東京に始まった文明開化の賑わいが、久留米の街にも行きわたろうとしている、明治20年代の初めである。
「景気のよか話が続くもんたい」
 いつになくご機嫌なのは国武喜次郎である。ご機嫌のわけは、かすりや縞織の売れ行きの好調なことと、前年に国から受けた井上伝に対する追頌(ついしょう)が重なったことである。
喜次郎もまた、本村庄兵衛亡きあとを、かすり業界の指導者として君臨してきた1人である。
 ここでいう国からの「追頌」とは、明治17(1884)年、熊本市で開催された第3回九州沖縄八県聯合共進会で、西郷従道農商務卿から下された故井上伝に対する表彰のことである。追頌文には次のように記されていた。

 幼年より意をはた業に注ぎ、常に物産の乏しきを憂慮し、千思万考遂に絣の織り方を発明し、尚進んで画絣等を織り出し、老年にいたるまで之を伝習す 無慮四百名是を久留米絣の起源とす。現時の産出三十万反。仍って其の功績を追頌す。

 今や自他ともに許す久留米を代表する商人・喜次郎と庄平である。
「何と言っても、伝さんの働きがなかったら、今の久留米の賑わいもなかったろうし」
庄平の呟(つぶや)きに、喜次郎の表情が曇った。
「どげんしたとですか、喜次郎さん」
「伝さんの家のことたい」
「家がどげんかしたと?」
「伝さんの曾孫(ひまご)の久吉がね・・・」
「ああ、トモさんの息子の。その久吉が、どげんしたとですか」
「貧乏しとるとたい。このままじゃ、織屋ば続けられんち。久留米絣の家元が消滅してしまう」


本村庄平

 久吉が親元の高松家を離れて井上伝の織屋を継いだことまでは聞いていた。だが、そのことが組合での話題に上ることはなかった。2人の会話に加わったのが喜次郎の息子の金次郎と松井甚吉らである。
「この機会に、みんなに相談があるばい」
 評議員を退いて以後、滅多に事務所に顔を見せなくなった喜次郎と庄平だが、依然として組合内での影響力は大きい。
「何でしょうか?」
 最近評議員に加わった北島三次郎が、少々緊張気味の赤ら顔を上げた。
「伝さんが死になさって、来年で20年たい。わしら久留米商人も、ここらで一度足元ば見直してみらんか」
 突然足元をみろと言われても、経験不足の連中にはどう答えてよいものか見当もつかない。
「西南の役時の、いい加減な商いで失うた久留米んあきんどの信用も、やっと元に戻った。ばってん、このままじゃと、いつ何時また痛か目ば喰らうかもしれん。そこで・・・」
 喜次郎が思いを披瀝した。
「伝さんの功績ば未来永劫に忘れんごと、書きとどめておこうち・・・」
 今度は、中堅評議員の遠藤重平が手を上げた。
「どげなふうに?」
「誰にも消すことができんごと、でっかい石碑に彫ったらどげんかと」
「その石碑ばどこに置くとですか」
 こうして2年後に完成した石碑は、筑後一円から人が集まる水天宮境内に据えられた。


久留米水天宮境内の「久留米絣碑」

石碑には次のような文言が刻まれた。

故井上伝子は、夙とに織機の業に長じ、数年刻苦して遂に絣織りを発明し、・・・斯に当組合を組織して以来既に4年事業年に盛況に向かい組合員月に増加す。又昨23年内国博覧会に於いて久留米絣は受賞多数を占め、審査好評を博したり如。此れは皆氏の賜物と云わざるを得んや。

 同業組合は、曾孫の井上久吉に対して報恩金として50円を贈ることにした。
 時代は、明治から大正へ、更に昭和へと進んでいく。井上伝母子や大塚太蔵、牛島ノシらが、工夫を凝らして創り上げた久留米絣の織りと柄は、筑後一円の農婦などによって定着していった。激しい太平洋戦争を経た後も、老若男女の普段着として愛用されたのである。
 井上伝の生誕から230年が経とうとする今日では、久留米絣がお洒落の代名詞となって、男女の服や小物など、根強い人気を保ち続けている。(完)


現代風久留米絣(地場産くるめ展示)

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