久留米絣の井上伝 


2014年6月22日

 後家さんの引っ越し    作業場拡張    大名家の乳付

第6章 弟子養成所

1816-1822

 
後家さんの引っ越し

 伝は、夫がいなくなった原古賀の家から脱出したかった。3人の子供を養いながら織屋を続けるためには、名実ともに自身が独立する必要を痛感したからである。引っ越す先といえば、やはり実家のある五穀神社周辺しか思い浮かばない。そこで、神社参道に面した家屋を借りることにした。
 家は、紺屋の佐助が探してくれた。間口2間半(4.9b)で、6坪4合(24.8u)の狭い土地だが、母子4人が暮らすには十分であった。隣近所に挨拶を交わせる知人が結構残っているのも心強かった。


現在の五穀神社参道

 再び織屋を開くまで、織機や道具は佐助が預かってくれた。また、ユキエらには、それぞれの実家に身を寄せるなどして待機させた。伝にとって、生活に必要な道具と、身につけるものだけを持った、侘(わび)しい引っ越しとなった。
 新しい家に落ち着いてやっとひと段落というときに、またも伝に悲劇が襲った。二男の浅吉が風邪をこじらせ、あっと言う間に亡くなったのである。
「何てこった」
 食べ物が喉を通らない日が幾日も続いた。これまで、仕事にかまけて、子供に愛情を注がなかったことへの天罰かと悔しがる。それでも、織屋再開の準備は待ったなしであった。弟を失った長男の兵太郎は、妹とともに母親のそばを離れようとしない。伝は、父源蔵と母親のミツを自宅に住まわせて、子守代わりをしてもらうことにした。狭いながらも、親子三代が一緒に暮らすことによって、織屋再開にも弾みがつくと思った。
「ごめんね、そのうちに大きか家に住めるごとするけん」
 後で述懐することだが、家族ということでは、この時が一番楽しかった。
 働きづめで得た蓄えも、いずれ底をつくに違いない。早く稼ぐ手立てを考えなければならない。
「お伝、おるかい」
 遠くからでも聞こえる大きな声を張り上げて、佐助がやってきた。
「まだ、次の仕事の段取りがでけんのかい?」
「わざわざそげなことば言いにきたと? まだね、働く気力が湧かんのよ」
「飢え死にするのは子供たちだけじゃなかぞ」
「ははあん、ユキエに吹き込まれたばいね。うちの踏ん切りが悪かもんで」
伝が考えるとおりであった。ユキエたち待機組も、しびれを切らしていると佐助は告げた。
「忘るるところじゃった、大事な用件ば・・・。福童屋の旦那が、お伝に用事があるち」
 今頃福童屋の名前が出るとは思ってもいなかった。何はともあれ、出向かないわけにはいかない。
「大将は、ちょっとばかり外に出とらすけん」
 番頭の徳助は、主人が帰るまで待つように言いつけた。待てと言われれば待つしかないのが、問屋と織屋の関係である。手持ち無沙汰もあって、いざり機が並ぶ仕事場に入ってみた。10年前に、奉公先の松田平蔵の屋敷から出前伝習に通って以来である。相変わらず30人ほどの織り子が、はたにしがみついて脇目も振らずに杼(ひ)を送り続けている。緯糸(ぬきいと)を締め付ける筬(おさ)と経糸(たていと)を操る踏み木の音だけが部屋中に籠もり、独特の藍汁の臭いとあいまって、狭い作業場は息が詰まりそう。
「大将が帰ってこらしたばい」
 徳助に声をかけられて、伝は我に返った。
「坊やも、気の毒なこつじゃったない」
 また金ぴかの置物が増えた床の間を背に、半兵衛が伝の不幸を慰めた。
「これからどげんするとか? お前には、はたを織るしか能がなかけんな」
 嫌な切り出し方である。次八との結婚を勧めたときも、「無理強いはせんばってん」を強調しながら、結局は承知させてしまう。半兵衛のやり方を老かいとでも言うのだろう。
「以前のごと、娘たちにはた織りば教えんか」
 今見てきた作業場に戻れと言われても、はいそうですかとはいかない。せっかくはた織りを教える仕事が軌道に乗ってきたとき、次は年季奉公にあがれと言われた。例えその原因が自分の実家にあったとしても、もう懲り懲りである。ここははっきり断ろうと、まっすぐ半兵衛を見据えた。
「違うぞ、お伝。今度は、自分の作業場で自分の弟子ばとれち言うとるとたい。こう言っちゃなんだが、お伝は、人に織物の技術ば教ゆることには長けておるけんな。お前のところでよか織りもんが出来りゃ、うちの儲けも多うなるけん」
 半兵衛の話を聞いていて、違和感を拭えない。10年前、半兵衛も徳助も、「お傳加寿利」の商標さえ使えれば、今より良いものを工夫する必要はない、間違いなく早く織ることだけを考えろと言いきっていたはずである。歳月が、半兵衛の考え方まで変えたというのだろうか。どこまで話しに乗ってよいのか、判断に迷うところであった。
「ばってん、旦那さんのところにも作業場があります」
 福童屋と自家の作業場が競合することを考えると、気持ちが悪くなる。
「それは心配せんでもよか。うちの娘たちはみんなお伝の作業場に移すけん。それに…」
「何でっしょうか?」
「お伝の作業場で織るかすりは、この福童屋が無条件でみんな引き取るたい。それもよそより高値でな」
「・・・・・・」
 そんなうまい話があってよいものか、半信半疑であった。
「ばってん、旦那さん・・・」
「まだ、何かあるとか」
さすがの半兵衛も、この辺で話を打ち切りたがっている。
「うちの家はたったの4坪です。そこに母子3代が肩寄せ合っとるとです」
「仕事場が狭かち言いたかとじゃろ。今お前たちが住んでおる家の南側に大根畑があろうが。あの土地ばみんなわしが買うた。そこをそっくりお伝に貸そうち思うとる。ただし・・・」
 そこから先が、半兵衛の怖ろしいところである。
「何でっしょうか?」
「家賃はちゃんといただきますよ。それから、お伝のかすりはよその店に流したりせんち、証文も書いてもらわにゃ」

作業場拡張

 福童屋の助けで、隣の大根畑に2棟の作業場が建った。その内1棟は、遠くからやって来る娘たちの宿泊所に充てることにした。
 開業に合わせて戻ってきたユキエらと、福童屋から移住してきた娘らを含め、弟子たちがお伝の織屋を活気づけた。
 福童屋から持ち込まれる新柄の注文をこなしていくためにも、伝が家事に埋もれている暇などなかった。そうなると、娘たちに食べさせるための飯炊き女も必要になる。母屋に住む子供たちは、今度も老父母に任せきりになってしまった。
 そんな折、ユキエが「もっと織り子ば増やしましょう」と言いだした。
「この頃では、どの家の娘でもかすりば織るとです。ばってん、絵とか文字の柄ば織り込むとなると、まだまだお伝さんの教えを受けたもん(者)にしかでけまっせん。弟子になりたかちいう娘が、そこらにウヨウヨしとるとです」
「ばってん、この作業場では・・・」
「建て増しすればよかですよ、福童屋さんにお願いして。裏の畑にあと2棟ばかり建ててもらいましょうよ」
「そんな自分勝手なことばかりでよかかね」
 次八がいて、新しい柄を考えながら、織ってさえいればよかった時とはわけが違う。福童屋から受けた借りは、自分で返さなければならない。
「あたって砕けろですたい、お伝さん」
 ユキエは、今どき珍しい前向き志向の女である。案ずるより生むがやすしだとも言った。


江戸末期の作品「箱とネズミ」
(久留米絣技術保存会所有)

「あと2棟建てれば、織り機が50台くらいは置けるな」
 伝の相談を受けた半兵衛は、空き地に作業場を建て増すことを快諾すると、すかさず利益の行方を追っている。
「ところで、お伝」
 今度はどんな難題が飛んでくるかと身構えた。そこに、伝より4歳か5歳は若そうな、前掛け姿の青年が入ってきた。
「こん男は、うちに出入りしとる庄兵衛たい。歳は若いばってん、なかなかの働きもんでね。うちの問屋とお伝の織屋の、繋ぎ役の機屋(はたや)ばしてもらおうち思うとる」
 青年の店の屋号は「松屋」で、親の代から通町3丁目で機屋を開いていると言う。
 翌日には早速、庄兵衛が作業場にやってきた。ひと通り作業場を眺め回した後、ポツリと一言。
「弟子が増えた分、織る反数も増えんことにはない」
 福童屋の代弁なのか庄兵衛の本音なのか、伝にはそこのところがよくわからない。ひと月もたつと、4棟が軒を並べる竹皮葺きの作業場が建ち、必要な道具も揃った。さすが福童屋が差し向ける大工たちだと、その手際のよさに伝もユキエも感心した。

「お伝の弟子になりたかちいう娘ば連れてきたばい」
 さて織機をどう配置しようかと考えている最中に、今度は福童屋の徳助が娘20人を連れてやってきた。
「1人が月に6反織るとして、50人で300反か・・・」
 徳助が、勝手に皮算用を始めた。

 文政5(1822)年、伝は34歳になった。原古賀の時と違うのは、作業場がかすりを織るだけではなくて、娘たちの織物教室の場にもなっているということ。弟子の年齢は15歳から25歳までと幅が広い。家から通うものもいれば、作業場の隣に設けた部屋に泊り込むものもいる。  また、金持ちの娘も貧乏人の娘も、ここでは一様に働かなければならない。


手織り風景
(地場産くるめ展示)

 伝の弟子教育は、図案の作成に始まり、経糸(たていと)・緯糸(ぬきいと)を整える(整経・整緯)、手括り(染めを防ぐ部分を別の糸で括る)、藍建(あいだ)(藍を発酵させる)、藍染、水洗いからかすり解き、はた仕掛け、手織り、整反(せいたん)(幅や仕上がりを調べながら、四つ折に整える)まで、すべてを覚えさせることであった。時がたって、弟子がそのまた弟子(孫弟子)に、間違いなく教えられるようにとの、伝の配慮も加わっている。
 藍建(あいだて)や藍染(あいぞめ)は、佐助が親身になって教えた。
 作業中少しでも怠けるものがあれば、伝やユキエの容赦ない叱咤(しった)が飛ぶ。「ただ織るだけち思うとりました」と、不満を漏らす者がいる。その者には、即刻破門を申し渡した。授業に慣れてきてどんどん先に進む者もいれば、ある段階から進めない者もいる。遅い娘には「根性が足りん」と一喝して、やる気を起こさせた。
 ひと通りの技術を身につけた者には、糸括りや藍染め、はた織りなどの実践が待っている。遅れている者は、早起きや夜鍋をして取り戻そうとする。中には体調を壊して実家に帰ったまま、戻ってこない者もいた。
 1年もたつと、そろそろ在方(田舎)に帰り、嫁に行く者も出てくる。また、伝の要請もあって、作業場に残り、孫弟子の教育にあたる者も出てきた。

大名家の乳付

 福童屋の徳助が案内して、腰に大小を差した侍が作業場にやってきた。かすりの注文なら、福童屋で十分のはずなのに。お咎(とが)めを受ける節も考えられないし・・・。
「実はな、京の隈の松田さまからうちの旦那にお話しがあって、こちらの角田(かくた)さまをお伝に引き合わせるようにと」
 徳助が用向きを伝えた。
「恐れ入りますが、お侍さまが、このようなむさ苦しい場所に何用あってお出ましでございましょうか?」
「拙者は、二ノ丸(藩主が住む御殿)に勤めておる者。この度邪魔したのは、折り入って、お伝殿に願いの儀があって・・・」
 角田が言うには、二ノ丸においでの奥方に、お子が生まれることになった。お子が男子であれば、将来のお世継ぎになられるやも知れぬ。それ故に、お生まれのお子には乳付(ちづけ)が必要となる。乳付とは、実母に代わって乳を与える女性のことをいい、その後の養育までみる乳母(うば)とは意味が異なる。
「伝殿に願いの儀とは、生まれてくるお子に乳を与えられる、産後間もない丈夫な女を探して欲しいのだ。氏素性がはっきりしておって、健康なおなごであればよい」


久留米城の二ノ丸跡

 人選をするにあたって、家柄や財産などは問わないとも言った。
「何ゆえ、私ごときがそのような重大なお役目を仰せつかるのでございましょう?」
「城下広しと言えども、子を産むおなごを1度に大勢知る者は滅多にいない。長年娘らと接してきたそなたなら最適だと、松田殿が推奨してきたのじゃ」
「引き受けてくれるなら、指定した日時にお城に上がるよう」言い置いて、角田は帰っていった。残った徳助に、「気が重いですね」と、断っていいものか尋ねようとする。
「断ったりしたら後が面倒だからね。角田さまは、一見自由裁量のように言われるが、あれで絶対命令のつもりだよ」

 決められた日にお城に上がると、伝のほかに同じ用件で2人の女が呼ばれていた。お城に上がるのも、家老というご重役にお目にかかるのも、伝にとっては生まれて初めてのことである。自ずと体全体が強張(こわば)ってしまう。
「大方の話は角田から聞き及んでおろう。我が藩にとって、重大な事であるゆえよろしく頼む」
 家老は、上段から3人を覆い被せるように言った。伝を含めて、呼ばれた3人がそれぞれ乳付(ちづけ)の候補を持ち寄ることにして、その日は帰宅を許された。
 間もなく、二の丸御殿で弥作君(やはぎぎみ)が誕生した。将来9代目藩主になる有馬頼永(ありまよりとお)の幼名である。伝は、かつて福童屋の作業場で教えていたお杉という女を連れてお城に参上した。
 お杉は筑後川対岸の八丁島村に住む女で、2ヵ月前に女の子を産んだばかりの人妻であった。舅(しゅうと)などは、こんなに誇らしいことはないと、手放しで喜んだ。お杉の子には近所の女性が乳を与えることにして、村をあげて筑後川対岸のお城に送り出した。
何はともあれ、通外町での織屋は順調に滑り出したのであった。

 

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