久留米絣の井上伝 


2014年7月06日

 序章 墓前の追想
 

「井上伝の一生」を綴ります

  私のライフワークとなりました、「くるめんあきんど」シリーズの第2弾です。先にお配りしました「たび屋の雲平」は、広範囲の方々から厳しいご批判と合わせて、タイムリーな企画であるとの評価も多く頂きました。これらのご意見を大切にして、今回の「織屋のでん伝」に立ち向かいました。
 本編は、2006827日から、「久留米がすりの井上伝物語」の題名で、本サイト「筑紫次郎の世界」に掲載し、それを再編集したものです。
「織屋のでん伝」は、久留米絣創始者の井上伝さんをモデルにした作品(小説)です。伝さんの個性あふれる生き方を通して、久留米のあきんどを見つめ直すことが創作の目的でした。
 公益法人久留米絣技術保存会は、伝さんが開発した久留米絣のことを、次のように説明しています。

 手織機の規則正しく張ったタテ糸に、投げでヨコ糸を挿入して織りあげた、平織りの木綿絣着尺です。
タテ糸とヨコ糸には、あらかじめ模様にしたがって荒麻皮(あらそう)で手くびりし、その後に藍染めをして、白と藍の色に染め分けた絣糸を用います。
絣織物はタテ糸またはヨコ糸のみに絣糸を用いるのが一般的ですが、重要無形文化財久留米絣はタテ・ヨコ糸両方に絣糸を用い、タテ糸とヨコ糸の絣を合わせて織りながら柄を作る、全工程が手間と時間のかかる手仕事です。

  藍地に白の素朴な美しさと独特な肌触りが、長期にわたって多くの庶民の心を惹きつけてきました。時代の推移とともに、それがお洒落着となり、最近では洋服や小物などにも大いに活用されるようになりました。
 井上伝が編み出したかすり織りの技法は、櫨蝋(はぜろう)や製糖技術などとともに、財政逼迫の久留米藩を大いに勇気付けました。周囲の環境を読み、目の前の現実と向き合って工夫を凝らす。井上伝が、単なる織り子ではなかった所以がそこにあります。
それでも、彼女がこの世を去る明治維新までの久留米絣は、「日本中に誇れる」までには至っていませんでした。「絣」という漢字での表現すら、江戸期の最後の時代から使われるようになったと言いますから。
 時代が変わり、生産体制や流通のあり様が根本的に変化した明治維新以降、それまで出番をうかがっていた「くるめんあきんど(久留米商人)」たちの働きがあって、初めて久留米絣が光り輝きました。

 

江戸末期の作品 ふとん絣柄「重ね枡」
(久留米絣技術保存会所有) 

井上伝を語る時、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、女史が創りだしたかすり織りの技法を、女史自ら筑後平野の隅々にまで広げたことです。彼女に教えを受けた「弟子」や「孫弟子」たちが、家のため・お国(藩)のために、かすり織りの裾野を広げていきました。こうして、どこの家からも「トンカラリン、トントン」と、はた織りの音が聞こえるようになりました。明治以降、年間何百万反ものかすり生産を可能にしたのは、井上伝の、たゆまぬ弟子養成が基になっていることを忘れるわけにはいきません。
 皆さまからの、率直なご批判をお寄せ下さいますよう切にお願いいたします。
本著執筆にあたり、郷土歴史家、久留米絣技術保存会、地場産くるめなど多くの皆さまに、貴重な教えと資料提供をいただきましたことに心より感謝申し上げます。

2014年8月1日

 古賀 勝

序章 墓前の追想

 


井上伝記念碑(久留米市五穀神社)

明治311898)年、久留米町中の両替町(現久留米市役所付近)に、巨大な石碑が建った。久留米絣の創始者・井上伝女史を顕彰するための石碑である。
 碑文には、女史がかすり織りの技法を編み出してくれたお陰で、久留米絣の出荷量が年間10万反にも及んでいること。更に、かすりを織る工女の数も5万人に膨らみ、かすりを販売する業者の数にいたっては、実に1500人(軒)を超えていることなどがこと細かに綴られている。碑文の最後には、石碑を建立した目的が書いてある。「女の細腕」から始まって隆盛をもたらした久留米絣を、今後も更に発展させなければならないとの願いから、だと。
 この石碑は、その後五穀神社の境内に移されて現在にいたっている。筆者は、「井上傳子之碑」を見上げた後、女史が眠る寺町の徳雲寺を訪ねた。
石碑「井上傳子之墓」の裏面には「明治二年四月廿六日没 享年八十有二」。
台座裏面には、
世話人、組長 国武金次郎  副組長 松井甚吾  評議員 灰塚貞吉・・・・・・。
顧問 国武喜次郎 本村庄平・・・・・・。
明治期から大正時代にかけて、久留米絣を売りまくったあきんどの面々である。

伝女史が久留米絣の技法を考案したのは、200年以上も昔の寛政121800)年である。その時伝は、13歳(数え年)になったばかりの少女であった。彼女がこの世を去ったのは、それから69年後のこと。

井上伝は、文字どおり江戸時代末期を駆け抜けた女性である。彼女は、どんな気持ちでかすり織りと向き合って生きたのだろう。日々商人たちとの関わりは・・・。興味は尽きない。 


井上伝像(徳雲寺)

 物語は、井上伝が誕生した頃まで遡る。世は11代将軍徳川家斉の時代である。

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