2014年7月06日
「井上伝の一生」を綴ります
私のライフワークとなりました、「くるめんあきんど」シリーズの第2弾です。先にお配りしました「たび屋の雲平」は、広範囲の方々から厳しいご批判と合わせて、タイムリーな企画であるとの評価も多く頂きました。これらのご意見を大切にして、今回の「織屋のでん伝」に立ち向かいました。 本編は、2006年8月27日から、「久留米がすりの井上伝物語」の題名で、本サイト「筑紫次郎の世界」に掲載し、それを再編集したものです。 「織屋のでん伝」は、久留米絣創始者の井上伝さんをモデルにした作品(小説)です。伝さんの個性あふれる生き方を通して、久留米のあきんどを見つめ直すことが創作の目的でした。 公益法人久留米絣技術保存会は、伝さんが開発した久留米絣のことを、次のように説明しています。
藍地に白の素朴な美しさと独特な肌触りが、長期にわたって多くの庶民の心を惹きつけてきました。時代の推移とともに、それがお洒落着となり、最近では洋服や小物などにも大いに活用されるようになりました。 江戸末期の作品 ふとん絣柄「重ね枡」 井上伝を語る時、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、女史が創りだしたかすり織りの技法を、女史自ら筑後平野の隅々にまで広げたことです。彼女に教えを受けた「弟子」や「孫弟子」たちが、家のため・お国(藩)のために、かすり織りの裾野を広げていきました。こうして、どこの家からも「トンカラリン、トントン」と、はた織りの音が聞こえるようになりました。明治以降、年間何百万反ものかすり生産を可能にしたのは、井上伝の、たゆまぬ弟子養成が基になっていることを忘れるわけにはいきません。 2014年8月1日
古賀 勝 |
明治31(1898)年、久留米町中の両替町(現久留米市役所付近)に、巨大な石碑が建った。久留米絣の創始者・井上伝女史を顕彰するための石碑である。 伝女史が久留米絣の技法を考案したのは、200年以上も昔の寛政12(1800)年である。その時伝は、13歳(数え年)になったばかりの少女であった。彼女がこの世を去ったのは、それから69年後のこと。 井上伝は、文字どおり江戸時代末期を駆け抜けた女性である。彼女は、どんな気持ちでかすり織りと向き合って生きたのだろう。日々商人たちとの関わりは・・・。興味は尽きない。
物語は、井上伝が誕生した頃まで遡る。世は11代将軍徳川家斉の時代である。 |
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