伝説紀行 お光の水かけ みやき町(中原)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第016話 2001年07月15日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

水泥棒
お光の水かけ

佐賀県中原町


中原町を流れる寒水川

 今頃は、どちらのお百姓さんも田植えを終えて一休みというところか。と言っても、最近では早苗作りからすべて機械がやってくれるので、休みの気分も実感できないかもしれないな。それに、むかしと違って、日照りのときでも水不足の心配もなさそうだし、あとは、充実期に大きな台風さえ来なければと、祈るくらいか。
 今回のお話は、そんな気楽なことじゃなく、農民が農業用水を取り合っていた江戸時代のこと。中原町の3分の2は山地で、小川の急流が頼みの綱であった。

弱いものいじめ

「どうしたこつきぃ? あぎゃんばさらか水ば汲んどったつに」
 綾部神社に豊作を願うのぼりがはためく頃。お光婆さんが昨日苦労して寒水川(しょうずがわ)から汲み上げた水がひと晩で空っぽになっている。最近の日照りで川の水も底をつきかけているというのに。それでも、死んだ爺さまが残してくれた田んぼを守って、70歳になる今日まで重労働に耐えてきた。100b離れた寒水川から、天秤棒で水を運ぶのは並大抵ではない。一日でもさぼろうものなら、今年の収獲が見込めなくなるから、重労働も厭わなかった。
「あれはな、弥一の仕業ばんた」
 うなだれているお光婆さんに、仲良しのおよねさんが耳打ちした。そう言われれば弥一の奴、婆さんの2倍もの田んぼを持ちながら、水汲みをしている様子はない。
「よかこつば教えてくれなさったばってん、こげな年寄りじゃ、あげな奴と喧嘩しても勝ち目はなかきぃ」
「そげなこつはなかばんた。ここで勝負すりゃよか」
 およねさんはこめかみを指差して、頭脳戦争を提案した。その晩、お光婆さんが早寝をしたところに、庄屋さんからのお触れをもって当番の男が現われた。「明日溜池に残っとる最後の水ば公平に分配するけん、水泥棒に遭わんごつ、今晩はみんなで見張りたい」と夜の動員を言い渡した。


寒水川周辺の作業風景

「そいばってん、私やここんとこ頭が割るるごつ痛うてな。とても夜の仕事はできまっせん」
 お光婆さんは、男に丁重に謝って、頭に布団を被せた。

堤に幽霊が…

 夜も更けて、頭が割れるほどに痛かったはずのお光婆さんが、むっくと起きあがって鏡の前に座った。そうじゃなくてもあまりかまわない白髪頭を、わざわざぐちゃぐちゃにして、顔には娘顔負けの白粉を塗りたくった。唇には耳まで届くように真っ赤な紅を這わせた。顔の手入れが終ると、今度はおよねさんから借りた白無地の長襦袢を羽織って仕度は万端。
 そこへやってきた仲良しのおよねさん。
「男どんな、堤の下の番小屋に集まっとるばん」
「弥一は?」
「うちの亭主に探らせたら、あのこすたれが、見張りばっしよるふりばして、堤の水ば勝手に盗もうとしとるげな」
「どこまで腹の黒か奴じゃかの、弥一ちゅう奴は」
 怒りも頂点に達したところで、お光婆さんとおよねさんがいざ出陣とあいなった。

 昼間あんなに暑かったのに、夜が更けるとあたりはひんやりしてくる。暗闇の向こうから弥一がやってきた。天秤棒に空の桶を提げて、堤の方に駆けて行く。道端の笹薮が、風もないのに音を立てて揺れた。「ウサギかネズミじゃろう」と弥一は気にせずに走った。すると、暗闇の中にボーっとオレンジ色の炎が立ち昇った。
「出た!」、生まれて初めて目にした人魂に、腰を抜かして座り込んだ。つぶっていた目を半開きにすると、炎の向こうに、血の気の失せた女が、白装束で立っている。女の口は耳まで裂け、「ウウウ…」と唸る様は、今にも弥一に食らいつかんばかりである。
「で、出た、幽霊が出た」
 弥一が叫ぶが、声にならない。体中がブルンブルン震えて、立ち上がることもできず、気を失ってしまった。
 弥一の帰りが遅いので、番所にいた男たちが捜しに行った。堤の土手で倒れている弥一を起こし、事情を訊いた。そこに再びオレンジ色の人魂と、耳まで裂けた口を持つ幽霊が現われた。
「嫌だ、嫌だ。夜中の見張りはやめた」
「こんな目に遭うくらいなら、おりゃ(俺は)堤の水はいらんもんなた」
 男たちは、がくがくの足を引きずって家に帰ってしまった。
「うまくいったぎゃ、およねさん」
「こげん思うたごついくちはなた」
 幽霊のお光婆さんと、竹竿に人魂をかざしていたおよねさんが顔を見合わせてにっこり。「腹減ったなた」、二人は持参したぼた餅を口いっぱいに頬ばった。腹が膨れると今度は、弥一が置いていった桶と天秤棒を持って、堤の底の水汲みに。(完)

 お話しの綾部地区は、寒水川が長崎自動車道の橋桁を潜るあたり。川のほとりで畑仕事をしている老婆が、人懐っこい笑顔で挨拶してくれた。人間の知恵と公共工事のお陰で、最近は大雨が降っても日照りが続いても、農民の被害は少なくなった。
 だが、安心ばかりもしておれない。なにかの理由で、もう一度むかしの手作業による農業が必要になったとき、早苗つくりや田の草取りも忘れてしまった農民はどうするのだろう。あちこちにできたコンクリートのダムは、永劫に安全だといえるのだろうか。
 楽することばかり考えていると、今度はお光婆さんが本当に化けて出るかもしれないぞ。そんなことを考えながら、綾部神社前で買ったぼた餅を食ったら、これがまた甘いこと。

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