福岡県大川市・佐賀県川副町
大詫間島の漁港
突然出現した中州は誰のもの?
江戸時代前期。領地の境界を巡って筑後の柳川藩と肥前の佐賀藩が激しく対立していた。河口あたりにできた中州の領有権を主張してのことである。現在の大野島(福岡県大川市)と大詫間島(佐賀県川副町)のことだ。
関が原の合戦後、いくら対立してもめったなことで戦を仕掛けるわけにはいかず、両藩とも理屈を並べ立てて自らの正当性を言うばかりだった。
筑後川の最下流を地図で見る。巨大な島を挟んで左を流れるのが筑後川本流で右を流れるのは早津川。
中州の中央には境界線があって、上流側が大野島、下流側が大詫間島となる。つまり島の上流部が福岡県で下が佐賀県というわけだ。現地に赴いて境界線を確かめようとしたが無理だった。どうしてか。図:大野島(上)と大詫間島(下)。昔点線に沿って上下分離していた
島ができた頃の古地図では、上の島と下の島がはっきり分かれていた。当時は上方を「雄島」といい下方を「雌島」と呼んでいて、はっきりしていた。要するに永年の土砂の堆積で、上と下の島がくっついてしまったというわけだ。
問題は、突然川中にできた二つの島の境界線がどのようにして決められたかである。右岸の佐賀藩と左岸の柳川藩の双方、「両島とも我が藩のもの」といって譲らなかったからややこしい。
神頼み
突然出現した中州の領有権をめぐる睨み合いは延々と続いた。ようやく交渉の場が設けられたのが20年後の正保年間(1644〜47)のこと。交渉の舞台はできても双方に譲りあう気配は見られない。
「いくら中州と言っても、島は筑後の側に寄っているからこちらのもの」とは、柳川藩。
「何を言われるか、両方の島には、既に肥前の領民が八大竜王の祠を建てておるではないか」
と佐賀藩の全権大使が応戦する。
この場合の調停役として登場するのが、幕府きっての知恵者と噂の高い老中松平伊豆守であった。伊豆守の意を受けて筑後川畔にやってきた役人が言い放った。
「これ以上双方が言い合っていても仕方ござらぬ。いかがでござろう。ここは神のご託宣を仰いでは」
双方永い交渉に飽き飽きしていたこともあって、伊豆守の仲介を受けることにした。それではと、幕府の役人は桐の箱から恭しく巻物を取り出して読み上げた。
「まずは、肥前の千栗八幡宮(佐賀県北茂安町)と筑後の高良大社(久留米市)から御幣をいただく。その御幣を柴に括って雄島(大野島)の上流から流すこととする。御幣が流れた道筋が肥前と筑後の境界線である」
早い話が、御幣を乗せた柴が早津川を流れれば、その東側にあたる二つの島は筑後のものということ。逆に筑後川本流を下れば、その西側の島はすべて肥前のものというわけだ。
双方の重役が固唾を呑んで見守る中を、上流で放たれた柴がゆっくり流れ始めた。潮の流れで途中あっちを向いたりこっちに流れたり。気を揉ませたあげくが、結局早津川へ。喜ぶ柳川と肩を落とす佐賀側。勝敗は決まったかに見えた。
ところがである。早津川を進んでいるはずの柴が、潮の流れの向きが変わったためか、左に旋回して雄島と雌島の間を通り抜け、筑後川の本流に出てしまった。
「よーし、決まった」
幕府の役人の号令で、雄島が筑後・柳川に、雌島は肥前・佐賀の領土に確定した。
今では、跨げば届く両島の境界杭)
読者の皆さまには、この話をご理解いただけただろうか。
大川市から新田大橋を渡って大野島へ。車は福岡県を走っているはずなのに、いつの間にやらそこは佐賀県であったりする。大詫間島との境目がわからないからだ。
大川市の教育委員会にそのあたりの科学的証明をお願いした。
「小字名に“とおり柴”というのがありますが、そこがむかしの島と島の境をなす海峡だったのでしょうね。はっきりするところが一箇所だけあります」と聞いて出向いたところは、跨げば届く単なるどぶ川だった。川には境界を示す杭が打ってあった。
「自然の力はすごいですね。大きな島がいつの間にかこんなにして合体するんですから」
教えてくれる市の職員さんも感心している。八大竜王を祀る大詫間島の松枝さん(神社)だけは、「本当は双つの島とも佐賀のもんじゃもんね」と言わぬばかりに、貫禄を示していなさった。(完)
御幣:神祭用具の一つで、白または金銀・五色の紙を幣串に挟んだもの
松平伊豆守(信綱):江戸時代前期の政治家。伊豆守と称す。徳川家光に仕えて老中に。島原の乱を鎮圧。“知恵伊豆”として知られる。
|