伝説 夜泣き地蔵 佐賀県みやき町(三根)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第005話 2001年04月29日版
再編:2017.05.14 2019.07.07a
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。


夜泣き地蔵

佐賀県みやき町(旧三根町)


乙護神社境内の夜泣き地蔵

夜泣きは赤ん坊の仕事

 160年前の天保時代。乙護神社(おとごじんじゃ)近くの松枝地区に丸々太った女の赤ちゃんが生まれた。初孫の誕生を喜んだ三吉爺さんとヨシ婆さんは、この子が未来を照らす立派な人間に成長するようにと願い、お光と名づけた。お光ちゃんは、お母さんのおっぱいを腹いっぱい吸ってどんどん大きくなっていった。
 ところがお光ちゃん、生まれて半年もたったころから急に夜泣きが始まった。初めは爺さんも婆さんも、「赤ん坊は泣くのが商売じゃき」と言って気にもかけなかった。だが一晩中泣く夜が続くと、赤ん坊のお母さんを叱るようになった。
「こがんかこつなら、こっちが病気になるばんた」
 そう言われても、お母さんにはどうすることもできない。「すんまっせん」と詫びて、赤ん坊を抱いて外に出た。それでもお光ちゃんは泣きやまない。家には戻れず、家の周りをぐるぐる回った。近くの田んぼで蛙が「がぼっ、がぼっ」と憎らしげに囃し立てる。お母さんはお光チャンを抱いたまま泣き出してしまった。
 東の空が白むと、お光ちゃんはお母さんの腕の中でやっと寝息を立てた。そんな日が何日も続くので、お母さんはお光ちゃんをお医者さんに連れて行った。
「おかしかにゃあ、赤ちゃんはどこも悪うはなかばん。ほんにそがん夜泣きばしょっとか?」
 お医者さんがしきりと首を傾げた。その夜も、お光ちゃんは泣きどおしだった。そのうちにお乳も飲まなくなり、体は痩せ細り、とうとう亡くなってしまった。
「ごめんよ、ごめんよ」


乙護神社裏手の墓石(イメージ)

 お母さんは、枯れ木のようにしぼんでしまった赤ん坊の遺体を抱いて泣きじゃくった。初孫をなくした三吉爺さんとヨシ婆さんの嘆きも同じ。
「わしが悪かった」と言っては、お母さんと一緒に泣いた。

地蔵さんになったお光ちゃん

 爺さんは、乙護神社の裏手にお光ちゃんを葬り、せめてもの罪の償いにと、お地蔵さんを祭った。
 時は移って、隣村でお光ちゃんと同様に夜泣きがとまらない赤ん坊がいた。お母さんが近所のお年寄りに相談した。
「そんならさい、乙護神社の裏んにきにあるお地蔵さんにお参りするとよかばん」
 お年寄りは三吉爺さんの孫のことを思い出して教えた。赤ん坊のお母さんは、子供が好きそうなお菓子をいっぱい持って出かけ、お光ちゃんのお墓に供えて線香を焚いた。線香の煙はお地蔵さんのお顔を這い、やがて赤ん坊の頬を伝った。その夜から赤ん坊の夜泣きがぴたりと止まった。
 お母さんは大変喜んで、このことを近所近辺に話して回った。そうしたら、夜泣きする子供の母親が、引きもきらずに乙護神社のお地蔵さんにお参りするようになった。この頃からである、乙護神社のお地蔵さんのことを「夜泣き地蔵さん」と呼ぶようになったのは。(完)

 地図を頼りに田んぼ道を探し回り、ようやく乙護神社を見つけた。狭い境内を一周したら、朽ちかけた小さな祠に(最近は丈夫なセメントの祠になっている)、いつ供えたのかしぼんだ花が供えてあった。(最近もう一度訪ねたら、コンクリートの祠ができていて、新しい花が供えてあった)

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