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アマルナの信仰−1



 古代エジプト王国の中でも最も注目される時代のひとつが、アクエンアテンによる宗教改革の時代である。
 この時代は、現代名で”アマルナ”と呼ばれる地域に新たな都を構えたことから、アマルナ時代とも呼ばれる。(ちなみに古代名では「アケト・アテン」という名前だった)

 この、たった一代限りの「宗教革命」は、現代においても大きな関心を集めている。探せば、いくらでも資料が見つかるだろうから、基本的なところは、ここでは書かない。私のような素人がテキトーに書くより、専門家の本を探してきたほうがマシだろうし。

 このコーナーでは、本ではあまり触れられていない事柄、自説など、このサイトならではの書き方で書き流すので、間違っても真剣にレポートに使ったりしないように。(笑)
 


◆アテン神とは何か。◆

 まずは、これを語らなければ話が前に進まない。「アテン神とは何か。」
 簡単に言ってしまうと、「太陽の光を神格化した存在」のようである。
 形状的には、こんなカンジ。→

 エジプト神話には、沢山の神々が存在するが、それらの神々には法則性がある。
 自然を、その特性とともに神格化したもの(例/鷹=雄雄しさ・気高さ、雌牛=優しさ・母性)。
 または、目に見えない概念をそのまま人格化した神(例/真実=女神マアト、認識=女神シア)。
 そして、土地を人格化した神(例/死者の丘の人格化=メルセゲル、その他各都市の「土地神」)。

 アテン神は、この中で一番最初の、「自然の神格化」に当てはまる。
 円盤から伸ばされる、千手観音タコと思う無数の「手」は、太陽の光を表したものなのだ。

 なお、自然を神格化した中でもこの神に限り、、名前が変わることも姿が変わることも、人型もしくは獣型で描き表されることもない。アテンはいつでもこの形、この姿でしか存在していない。


 さて、「アクエンアテンの宗教改革」で知られるアテン神だが、この神は、アクエンアテン(本来の名はアメンヘテプ4世)のオリジナルではなく、父の代には、既に存在していた神である。
 その起源は太陽神ラーの崇拝中心地であるヘリオポリス(古代名はイウン、聖書ではオンと呼ばれる)の町とされ、太陽そのものであるラー神から派生したとされる。言ってみれば、本来は「上位の神の一部が独立したローカルな神」だったわけだ。
 そのローカルでマイナーな神が国家の第一神に祀り上げられたことに、「宗教改革」のポイントがある。

 同じ太陽でも、アテンは破壊の女神セクメトや、再生復活する太陽の化身ヘプリのような神々とは異なり、単なる「光」にすぎない。つまり、照らし、暖める存在ではあるが、真夏の太陽のように激しくはなく、日の出・日の入りによって変化する存在でもない。
 多くの側面を持つ「太陽神」のワクの中でも、ごく一部の側面に限られた、部分的な神といえよう。

 はっきり言えば…なんの役に立つのか分からないし、これ、というパッとした面も無いため、求心力もない。国家のシンボルとしては、いささか心もとないだろう。
 どっちかっつーと、世界を滅ぼす力を持つ破壊女神セクメト様あたり国家神に持ってくればインパクトが…なんて思ってしまうのだ。

 アクエンアテンが、何故この神を国家神に選んだのかは今のところ不明であるが、即位して4年目に新都に着工し、5年目に改名、とスピーディーに事を運んでいることから見て、即位以前から、アテン信仰に傾倒していた可能性は高い。
 ついでに言うと、こんなローカルな神をどこで知ったのか、何があって信仰するようになったのか、どうにも首をひねるところである。ぶっちゃけ、光ってるだけの神様なんて拝んでも、あんまりご利益はなさそうなのです。


◆アテン崇拝の功罪◆

 よく挙げられるのが、「アテン信仰は、肥大しすぎたアメン神官団の勢力を削ぐための政治的意図があった」と、いう説である。
 国が巨大化して王一人で治めきれなくなってくると、分権が進み、構造が複雑化する。新王国時代は、王の下に政治を担当する宰相、軍事を担当する将軍、さらに神事を担当する神官もいて、分業化されていたと考えられている。かつてのように、王がたった一人ですべてを決定するのは難しかった。官僚社会である。

 中でも、聖職者という権力は別格だ。
 王とは、神の子であるとともに神によって選ばれた代表である、という思想が背後にある以上、王は神の助力を祈らねばならない。何をするにも儀式がつきまとい、神官団は、神の代理人として王に進言する権利を持つ。王様より神様のほうが偉いのだ。

 当時の国家神は、アメン神。新王国はテーベの守護神、アメン神への信仰とともに発展している。
 必然的にアメン神に仕える神官団の支配力は強まり、王にたいする発言力が強まっていた。
 だが、アメン神を否定することによって、その発言力は消える。アメンなんかしらねー、これからはアテンの時代だぜ! …と、言うことによって、アクエンアテンは、一時的にせよ、王権を王自身の手に取り戻すことは出来た、と考えられるのである。

 しかし、アクエンアテンがこれを狙いとしていたかというと、どうも怪しい。
 私などは、純粋に宗教に熱を上げていただけではないか、と疑ってしまう。なぜかというと、ウザい神官を退けて、政権を一手に握ったはずりアクエンアテンは、全く政治をしていないからである。

 このことは、アクエンアテン時代に書かれた外交文書の記録から伺える。
 アテン信仰によって支配力が王の手に戻るどころか、むしろその逆で、王が新都に引きこもってしまっている間に、宰相や将軍といった家臣たちが実権を握ってしまっている。北や南の領地は次々離反し、国土が危ういとなったときさえ何もしていない。
 さらに、アクエンアテンの時代に王権が弱まった証拠として、次代ツタンカーメンは殆ど何も出来ないままに早世してしまい(暗殺説がある)、その後に元宰相と元将軍の二人が順に即位したということも挙げられる。


 それだけではない。
 今まで信仰されていた神々を否定してアテン一神のみを崇めよ、とすることは、民意を無視した改革であったことは明らかで、当然ながら民の忠誠も下がったはずだ。大規模なクーデターやデモの記録は残っていないようだが、アクエンアテンの治世が長引くか、改革がさらに進めば、民や反感を持つ臣下との衝突は必至だったはずだ。
 民衆の支持を得られない改革がポシャるのは、いつの時代も同じである。
 支持されない王は、当然、国を仕切る力も弱かったはずだ。


 この時代、アクエンアテンはアマルナ様式という新たな芸術スタイルを生み出し、歴史に名を残した。
 また、無益な戦争によって多くの兵士や外国人を苦しめることもしなかった。
 だが、その反面、大国エジプトの庇護を信じていた領地を見捨て、民衆の信仰を取り上げ、国を疲弊させたということが出来る。
 それまで絶頂にあった第18王朝の終焉は、彼の政策失敗に負う所が大きい。

 アクエンアテンの政策には、功罪両面があり、どちらか一方だけを取り上げるわけにはいかない。
 沈み行く平和か、血とともに輝く栄光か。
 もし、アクエンアテンの政策が成功していたなら、古代世界は変わっていたかもしれない。

 


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