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末期王朝時代 第26王朝

ネカウ(ネコ)2世

Nekau/NechoU


在位年代;前610-595年
誕生名; ネカウ
即位名; ウェヘムイブラー Wehemibre'
太陽神ラーの望みを成就させる者
治世;16年


王朝の首都;サイス 
埋葬地;サイス? 
出身地; サイス

家族構成;父・プサメティク1世 息子・プサメティク2世

治世は短いが、多くの逸話を持つ王。
アッシリア最後の王の治世が紀元前612-609年あたり。というわけで、ちょうど、宿敵アッシリアが衰退し、エジプトが勢いを盛り返せる時代に王になった人である。

ギリシャとの関係構築、内政固めを終えたあと、シリア・パレスティナ方面への侵攻を開始。609年には、メギドの丘の戦いでユダ王国の王ヨシヤを破り、併合してしまう。(旧約聖書、「列王記」23:29) しかしその後、605年にはバビロニアのネブカドネザル2世に敗北し、シリアから敗走している。(「エレミア書」46:2)

■アッシリア衰退後の政治的選択


アッシリアの衰退に際し、ネカウ2世はかつての宿敵に対して援軍を出している。アッシリアは、北方から騎馬民族であるキンメリア人とスキタイ人の強襲を受け、当方からメディナが攻撃。さらにメディナと同盟を結んだバビロニアの反乱によって荒廃し、612年に首都ニネヴェが陥落。しかしアッシュル・ウバリト2世は首都を逃れ、ハランからエジプトに援軍要請を出したのだった。

ネカウ2世としては、ここで同盟者を作っておくのが望ましいと考えたのかもしれない。要請に答え、バビロニアと組んでいたユダ王国の王ヨシヤと戦ってこれを戦死させて更に進軍。トトメス3世以降はじめてユーフラテス川を通過したエジプト王となる。しかし援軍が足りず、バビロニアと戦うには荷が重すぎたためすぐに撤収している。帰り道、ヨシヤの後継者となっていた息子ヨアハズを捕らえ、ヨアキムを代わりに王にしている。以降は、エジプトのアジア侵攻のライバルはバビロニアとなる。

■当時のエジプトの軍事力

ネコ2世はギリシャ人と結んだことにより、三段オールの軍船を所有し、傭兵も多く抱えていたとされる。(ヘロドトスが詳細に記載している)
それまでほとんど海に出ず、海軍といってもナイル河口で戦う足場くらいでしかなかったエジプト海軍が、ここへきていきなり戦力UPである。これもネカウ2世の東進の野望を後押ししたものだろう。

■古代のスエズ運河構想

また、ネカウ2世はブバスティスから紅海へ抜ける「運河」の建設にも着手していた。(つまりナイル川と紅海をチョクでつなごうとした)
12万人とも言われる大人数を投入しての大工事だったが、完成したかどうかは定かではなく、伝説によると神の啓示により完成間際で工事を中止したとされる。

■アフリカ周航

ヘロドトスによれば、ネカウ2世はフェニキア人の船乗りをやとい、紅海側のエジプトから出発して、地中海側のエジプトに戻ってくるという、アフリカ大陸一周の旅を命じたとも言われている。まだアフリカ大陸がひとつの大陸とは知られておらず、アジアと接する狭い地域以外は海に囲まれているとは信じられていなかった時代、何故かそれを信じて実行させたのだという。船乗りたちは、三年をかけて見事に一周を成し遂げた、と伝えられているが、その話はヘロドトス自身が信じていなかった。
現在でも疑う声はあるのだが、南半球でしか見られない天体現象の描写(当時は北半球と南半球の概念もないので、知られていなかった)は実際に航海を行わない限り思いつかないはずだということから、実際にこの航海は行われたとする意見が主流となっている。もしこれが事実ならば、最初に喜望峰周りの航路を見出したのは、フェニキア人の船乗りたちということになる。(航路は紅海→喜望峰→地中海 というガマの逆周り)

出オチと呼ばないで! 古代エジプト王、ネコ二世 その華麗なる経歴と、ウケない理由の考察


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