中世騎士文学

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その他もろもろ


騎士となる儀式

 騎士になるには、まず侍従という階級でもって、騎士たちの側仕えをする必要があった。この侍従とは、貴族の子供たちである。
 彼等は、先輩になる騎士たちに仕えながら、礼儀作法や戦い方などを学んでいくわけです。

 騎士になるには「刀礼」(swertleite,ritterslac)という儀式があったた。これは、一定の修行を積んで21歳に達した小姓、もしくは侍童が、神の前で弱者の保護や教会と国家に対する「騎士の心構え」を誓ったあと、仕えるべき主君の刀で軽く肩を叩かれるというもので、「シュラーク(打つ)」という言葉からあるように肩を叩くのが基本なのですが、この行為は、14世紀になってからあらわれるものなので、実は騎士文学が盛況していた時代には存在しなかった。
 騎士となる年齢もまちまちで、たとえば古い時代、ゲルマン戦士の時代には12歳で戦場に出るとされている。

 また、騎士とは馬に乗る職業であることから、新たに一人前になる騎士は、その師から「拍車をつけてもらう」ことで一人前となったという。


騎士の役職

何気なく読み飛ばしていても大して問題無いが、その役職について、ある程度知っておくと、陣営の階級構造などが見えてきて別の面白さがあるかもしれないということで、よく出てくる役職名について概要を。
これらの役職は、日本語に訳するときに日本の皇居に仕えている人々の役職名にあてはめられてしまっているので、少々誤解を招きやすくなっているようだが、これらの役職は、身分の高い、作法を身につけた騎士たちが任命されていた。すなわち、ひとたび戦となれば献酌侍従や大膳職も武器をとって戦った。

・侍従…管理対象/財産

この時代にすべての国々で共通の通貨が存在したかどうかはわかりませんが、貨幣らしきものでやりとりすることはなく、財宝による物々交換が基本だった模様。財産=物、です。
侍従と言ってしまうと何だか小間使いっぽいのですが、主人のお側近く仕えるということは信頼されている証しでもあります。財宝庫の鍵を任された管理人、という重要な役職のようです。

・献酌侍従…管理対象/飲料

「執事」と訳されている場合もあります。
王や貴族に実際にお酒を注ぐこともありば、注がれる酒を管理するという意味の比喩でもあります。
誰かが酒を勝手に飲んでしまわないよう見張ったり、宴会のあとに足りなくなったぶんを仕入れたり、という気配りの職業でもありました。アーサー王の伝説では、ケイ卿がこの役職に当たると思われる。

・大膳職…管理対象/食料

宮内庁の官職としては「天皇陛下の料理人」ですが、騎士社会では料理人ではありません。
何百、何千という規模の軍隊になると、食料管理も大変ですよね。いちいち大量の食料を持って歩くわけにはいかないので、必要なぶんは行く先々で食料を調達することになります。つまり、補給線の管理人。行軍の要を握る重要な役職です。

・主馬の頭…管理対象/馬および兵士

騎士に馬は必須。よって、厩の管理も重要な役職です。
しかし、それだけにとどまらず、この役職の人々は、下級の騎士たちやその場雇いの歩兵のまとめ役も果たし、遠征時には、その日の宿泊地を決めたり、どこかの城に客人として泊めて貰うときには使者として立ったりもしていたようです。
宿の手配をするのだから、交渉役としての才能が必要とされることも。「侍たちの大将」というイメージでしょうか。
「ニーベルンゲンの歌」では、ハゲネの弟、ダンクワルトがこの役職を持っています。


荷車と十字路についての考察

中来ヨーロッパでは古来より、十字路は不吉なものとされた。身寄りの無いものや処刑されたものを埋めていたからである。
なぜ十字路かというと、死者が蘇ったとき、そこが十字路だとどちらの道を辿ればいいのか分からないから、という説や、十字路は四つの土地の境界であり誰の土地でもないから、という説などがある。

また十字路は、言伝の場所にも使われた。
ベルール版トリスタンでは、マルク王からトリスタンへの手紙が、荒野にある十字路に吊るされることとなる。
恋の秘薬の効果が切れた後、イズーをマルク王の元に戻そうと思ったトリスタンがマルク王に手紙を出し、マルク王がそれに答えるという手紙は四辻のクロワ・ルージュ(同じベルールのトリスタン内で”人が死体をよく埋める場所”として言及されている)に吊るされる。
不吉な場所だから、そこに吊るされた手紙を通り縋った旅人が手にすることはないと思ったからなのか、その時点でトリスタンが罪人とされていたからなのか、あるいはストーリーがその後、破滅へと向かっていくことへの暗喩か…いずれにしても、よろしくない手紙のやり取りだとは思う。

十字路同様、荷車もまた、不吉なものとされた時代があったようだ。

その頃、荷車は今日の晒し台のように使われており、今ならちょっとした都会ならどこでも三千台はあろうに、当時は町に一台しか置かれていなくて、今日の晒し台のように謀反人にも人殺しにも、決闘裁判の敗者にも他人の財貨をこっそり盗んだ罪人にも追剥ぎにも使用された。罪を犯して捕らえられた者は皆荷車に乗せられて通りを引き回されたのであった。その上社会の除け者になり、宮廷でも相手にされず、もはや尊敬されたり歓待されることもない。当時荷車とはそのような使われ方をし、かくも忌まわしいものであったがために、次のような諺が言い出されたのもこの頃であった。
<<荷馬車を見たりであったりしたら、不幸なことにならないように神様のことを思い、十字を切るがよい>>

―クレチアン・ド・トロワ「ランスロまたは荷馬車の騎士」神沢栄三 訳

物語が書かれたのは1170-80の頃とされる。
その時代で既に「その頃」とされているのであれば、もう少し前の時代になるのだろうか。ちなみにクレチアン(クレティアン)はフランスの人だ。本当に三千台も荷車があったのか? とかいうツッコミはさて置き、三千台もあったのなら、クレチアンのいた時代には、すでに荷車はさほど珍しく、忌まわしいものではなくなっていたに違いない。




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