アイスランド・サガ −ICELANDIC SAGA

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 =おしまいの付け足し=


 「簡単に要約するのも楽ではない」と言わしめた長大なサガを、むりやり追いかけてみた。実に長い長い道のりだった…。
 この物語に登場する多くの家系図は、実は、ひとつにつながる。
 登場人物は、みな、どこかで繋がりあった遠い親戚どうしだ。アイスランド、という狭いコミュニティの中で、人々がどう生き、どう考え、どう行動したのか。その閉ざされた世界に吹き込んできた新たな風、新教がどう影響するのか。
 これは、そういう物語なのだと思う。

 ニャールを中心にしてみてもいい。これを「ニャールのサガ」と呼ぶからには、ニャールの家系だとして、すべてをつなげたものを試しに作成してみようかと思ったが…登場人物が100人近く出てくるようなので、ウェブ上で見せるにはあまりにも大きすぎ、また、作るのも容易でないと断念した。
 興味のある人は、各家系図でカブっている人名を見つけてみると、いいかとも思う。
 ちなみに、この要約コーナーに載せている家系図は、私がヒマなときにマメマメ作ったものなので、細かいところで間違えている可能性もある…^^;


 物語の中では、キリスト教の伝来と島への信仰の導入が語られるが、実際として、人々はまだ異教時代にある。信仰なんてものは、そう突然変わるものではないし、たとえ新しい信仰が受け入れられても、それまで存在した異教的な習慣がすべて消え去るわけではない。
 新教の伝播が語られたあとも、人々の間には、まだ古い神々の面影が残されているのである。

 また、人々が古い信仰を捨てたのはキリストという神を信じたからではなく、キリスト教のもたらす新しい秩序を「法律」として受け入れる必要があったからだ。アイスランド一の優れた法律家、タイトルの由来でもある人物、ニャール自身が物語の中でそう言っている。かつての信仰を持つ者と、新しい信仰に改宗した者と両方が島にいては、正義も二つに分かれてしまう。秩序が乱される。信仰の統一は、信心ではなく「どちらがより秩序だって人々をまとめられるか」という理屈で導入された。

 盲目の男の目が復讐のために開いたり、十字架を投げ捨てた男が病死したり、キリストの奇蹟が語られながら、オーディンの怪異や女たちの予知夢が語られる。そして、前者より後者の比率が高く、「まやかし」「迷信」と呼ばれるもののほうにこそ、登場人物の心が因っている。
 キリスト教に改宗したニャールの体が、焼き討ちにあっても燃え尽きなかった、というのは一見すれば神の奇蹟のようだが、実は、ニャールが牡牛の皮を被って横になっていたからでもある。(皮が火を除き、その中で蒸し焼きになって死んだのだろう。)
 奇蹟があるのなら信心深い者たちにはもっとマシな未来があってもよさそうなもの、人々を支配しているのは結局のところ運命の女神ノルニルの定めた残酷な運命であり、神に祈って奇蹟を願うこともしないのである。

 ところで、この「ニャールのサガ」は、珍しく、登場人物の性格や容姿が詳しく取り上げられる物語である。
 見栄っ張りで嘘つきな、だが美しい長い髪の女、弓を能くする逞しい大男、髯は無いが賢く尊敬される男、… それぞれのキャラクターが、目の前に浮かびやすい。
 だがそれは、このサガが、各々の人格を尊重しているからだとは言い難い。
 そうして読み手が親しみをもった登場人物を無残に殺していくのだから、他のサガより始末が悪い。家系や、その人のしたことを語り、褒め称えさえしておいて殺害するのだから、まるで戦死者を選ぶ神オーディンのようだ。
 全編通して見れば、名前が出てくるだけで何十人という人間が殺されている。言ってみれば、繰り返される復讐の物語だ。

 そんな何での唯一の救いは、人が殺されるたびに取り成される和解の場面である。「ニーベルンゲンの歌」のように、殺したら殺しっぱなしではない。相手の一族を根絶やしにすることもない。
 しかし、その和解とは身内の死を銀や相手の身内の死で贖うものだから、現代の倫理からは程遠い。
 罪を許すのも神の教えかもしれないが、それにしては、あまりに何度も殺害と和解が繰り返される。登場人物たちは、身内が殺される悲しみを知っている。人を殺せば、等価な代償を支払わねば成らないことも、手ひどい復讐が待ち受けていることも分かっている。それでも、血を流さずに入られない。
 最後まで、その繰り返しである。

 ニャールの死でさえ、物語の中核を成すものではなく、物語に登場する「最後の訴訟」の原因になる事件、というだけ、しかもその訴訟は、被告側と原告側が話し合いでの和解を拒んで流血沙汰になってしまう。(新たな神に守られているはずの)全島集会での訴訟、という秩序の場さえも、その威厳を失ったというわけだ。

 フルート、グンナル、ニャール一族と移って来た物語の中心は、最後にカーリの手に渡る。カーリが舞台の中央に残される頃から、キリスト教的な表現が増え、複雑な家系図は登場しなくなる。カーリはもともと他所から来た人間だった。かつて仕えたシグルズ候や王族たちの王権争い、カーリのローマ巡礼など、アイスランドからは話が遠のく。
 話の雰囲気が変わるそのあたりが、物語中の世界の”時代の変わり目”なのだろう、と思う。

 物語の最終節で、再会したカーリに、老いたフロシはキスをする。男同士の口付けなど、サガの世界には似合わない。和解するなら手を打つべきだ。そこを、キスで迎えた。
 これがキリスト教的な和解、だろうか。
 さりとて、このただ一つの和解が、それまでのすべての血の惨劇を贖うとは思えないし、ニャール一族の殺害の罪をすべて帳消しにしたとも感じない。
 結局、この物語が何を言いたかったのかというと、時代の変わり目、過去と未来、異教時代とキリスト教時代をつなぐ”時間”…そのものでは、なかっただろうか。
 描かれた時間の中に生きた人々の誰が主人公だったのでもなく、誰のことを描きたかったのでもなく。

 浅い読みながら、つぎはぎだらけのように感じるこの物語に自分なりの解釈を付け加えて、物語の感想に代えたい。


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