やがて焔は亡骸を焼いた。
胸にも暑く。心悲しく。
さらに、これは、たった一種類の写本であって、かつて語り継がれていた「ベーオウルフ」の物語の、ひとつのバリエーションでしかない可能性も否定できない。
大抵の物語には、少しずつ筋の違う、いくつかの種類が存在するものだ。
地方や、語り手によっても違う。
「ニーベルンゲンの歌」や「ヴォルスンガ・サガ」などだと、異なる時代に書かれたと思われる何種類もの原本が残っており、比較考察も出来るが、一種類しか残っていないベーオウルフでは、そのようなことが出来ない。
実際は異なる結末にたどりつくバージョンがあったとしても、その内容を知ることは出来ない。
また、「カレワラ」のように、比較的現代に近い時代に再編纂されるということもされていないため、かつて語り継がれていた形のままである。
話の流れは、紙に書かれた物語としては飛び飛びで描写が乏しく、時代が古いため、価値観や時代背景も少し分かりにくいかもしれない。
話のスジが分かりにくいのには、聴衆が当然知っているべきだった当時の常識を、我々が知らないためでもある。
たとえば、「一寸法師みたいな」 などという喩えを使っても、外国人には全く分からないのと同じことだ。
「壇ノ浦に沈んだ 平家の武士たちが」だの、「密教僧の呪いを受けて帝が寝込んだ」だのと同じノリで、「その剣はかつて
ウィフスターンが」だの、 「シゲムンドは竜を倒した」だの、語られているのだと思えばいい。
しかし、外国人が、いくら研究しても、日本人が感じている「歴史的出来事への感情」が分からないように、実際のところは、その時代、その場所に生まれ育ち、文化を身に染み込ませなければ、おそらく理解できない。
たとえば、平家、壇ノ浦というキーワードを聞いて、胸に込み上げる感情を、ただ日本の歴史を学んだだけのアメリカの留学生が持つこときは可能だろうか?
現存する唯一の「ベーオウルフ」写本には、様々な方言が入り混じり、何度か書き直された形跡があるという。
少なくとも、前半と後半の間には不自然な歳月が流れており、もしかすると、間に別のサガがあったかもしれなし、元々別の人物の所業だったものを一人の業績に仕立て上げたのかもしれない。
真実は語る人々とともに消え、今はもう、この地上に存在しない、
たった一種類の、しかも不完全な写本を前にして語ることの出来る言葉は少なく、そのどれも、真実でありながら全てではない。
語り手たちは、失われた言葉を蘇らせることは出来ず、たどたどして言葉で新たな物語を紡ぎ、少しでも、かつて物語が語られていた時代に近づこうとする。