ベーオウルフは、
なぜ死ななければならなかったのか
「ベーオウルフ」の物語は、前半と後半に分かれている。この後半で、主人公であるベーオウルフは単身竜に挑み、命を落とす。
しかし、この死にはいくつかの不可解な点があった。
まずは、高齢になっているにもかかわらず、ベーオウルフがたった1人で戦いに赴いたことだ。同行した12人の部下たちのうち、逃げずに戻って来たのはウィーラーフのみ。また、竜と戦った時期も、前半から50年もの隔たりがある。
これについて、前半と後半はある意味をもって対を成している、と考える一派がある。
前半はベーオウルフの誉れと名声を、後半はその没落を描く、というものである。前半でのベーオウルフは謙虚であり、神のご加護を受けていたから魔物グレンデルに勝つことが出来たのだが、後半は、王座につき奢っていたために神の寵愛を失ったのだというのだ。
もっとも、これについては、多くの反論がある。
もし神の寵愛を失っていたなら、相打ちとはいえベーオウルフは竜を倒すことは出来なかったはずであるし、本文を読む限り、後半のベーオウルフが奢った王であるとは到底言えない。
また、キリスト教的な要素が、物語の成立以後に付加されたものである可能性も考え合わせれば、この没落説には疑問を感じざるを得ない。
そもそも一番の疑問点は、民に慕われ人望も厚かった良き王ベーオウルフが、最後の最後で部下たちに見捨てられ、孤独の戦いで命を落とした点にあるのだ、と多くの研究者は指摘する。なぜ彼は部下に見捨てられなければならなかったのか。その直前に、彼への信頼を失わせるような出来事があったのではないか――と。
しかし私は、この考えにも異議を唱えたい。
ベーオウルフは孤独のうちに死んだのではなく、部下のウィーラーフの助けを得て、ともに戦い、竜を倒している。
巨大な竜を前にして怯えるのは、人間の当然の心理であろう。その当然の心理に基づいて逃げ出してしまった11人の部下たちは責められるべきではない。ウィーラーフとて、はじめは怖気づいて動けなかったはずだ。
この恐怖の中からただ一人、ウィーラーフだけが、恐怖を乗り越えて現場に戻ることが出来た。それだけでも勇気ある行動だ。
北欧の伝承では、竜を倒すことが出来るのは、シグルドのような神の血を引く特別な存在だけだった。
ドイツの英雄叙事詩 「ヘルデン・ブッフ」においても、そうだ。英雄たちは皆、成功するにせよ、失敗するにせよ、竜には一人で挑み、
たった一人で戦う。
しかしベーオウルフは違っていた。
彼のもとには、縁者ウィーラーフが戻ってきた。戦いは二対一だった。
戦いの前、ベーオウルフは竜の吐く火炎に具えた特別製の盾を作らせていたが、ウィーラーフの持つ盾は普通の盾だったため、炎によって砕け散ってしまう。ベーオウルフは彼を庇う。ウィーラーフは、炎に手が焼けるのも構わず、竜の腹に一撃を繰り出す。
しかして、剣を失い劣勢にあったベーオウルフもまた、竜に、トドメとなる一撃をくらわすことが出来たのである。
老いてなお、民のためと言い竜に立ち向かい、その背中を、恐怖を振り払った若者が追っていく。
そこには、奢り高ぶった王の姿も、老いて力衰えた戦士の姿もない。
あるのは、勇敢で、身内思いの慈悲深き勇者の姿だけなのだ。
ベーオウルフは、決して自らの非によって死ぬさだめにあったのではない、と、この物語を愛する幾人かは言う。
それは、戦の民としての運命であり、戦場で死んだ者は天の宮殿に迎え入れられる、という信仰のもとに生きる、ゲルマン勇士のさだめられた結末なのだ、と。
私もそう思う。
もしも、この人物が戦士として衰えた人物なら、戦乙女たちは天への扉を開け放たず、戦いの場において誉れある死を与えたりはしなかっただろう。彼の思いは、次の世代を担う若者、ウィーラーフへと受け継がれた。それは、この物語を語った者が、ベーオウルフが孤独のうちに死なせたくなかったが所以である。
死は、誰のもとにも訪れる。どんな高名な者も死ぬ。
だからこそ、その死は彼にふさわしい形で訪れる必要があった。たとえば…”竜との戦い”といった。
北欧神話・叙事詩の一端としてこの物語を読むのなら、彼の死は、彼自身に与えられる最高の褒賞として描かれたクライマックスだったのではないだろうか。
前へ< 戻る >次へ