雑感書評-雑感

「「自由に話せないなら無駄」講演辞退の大江さん」


 作家の大江健三郎が、新潟県立三条高校からの講演依頼を一度は引き受けたものの、学校側から政治的発言に配慮するよう求められたために辞退するという出来事があった。以下は朝日新聞(平成14年1月20日)に掲載された、大江による「経緯と感想」である。

 講演を引き受けた後の正月、三条高校の校長から速達が来て『政治的なことについては話をしないでほしい』『(当校は)国旗も掲揚するし、国歌も歌う高校だ』という。校長が政治的立場を露骨に示し、私には『政治について話すな』と配慮を求める。外部の知識人を講演に呼ぶ側が管理しようとするのだ。小説家が若い人に講演するのは自分の生き方や考え方をまるごと伝えるためだ。自由に話せないなら、講演は無駄。日の丸や君が代は、断った理由ではない。それは学校側の問題だ。講演では、(恩師で三条市に縁のある)渡辺一夫さんの『寛容』について語ろうと用意を進めていた。私は子供たちへの講演を政治的宣伝の場にするような人間ではない。

 第一に思うのは、大江健三郎の政治的立場というのは従前から明々白々なのであるから、三条高校側が彼に思想的に相容れないものを感じているのであれば、そもそも講演なんて依頼しなければ良いだけの話なのではということ。とは言っても、思想面には目を瞑り、単なる文化人としての大江健三郎という人物に講演してもらいたいとの気持ちも分からないではない。特に、その恩師が三条市に縁があるということであれば尚更だろうな。

 一方の大江の態度というのは、かなり傲慢だとは思わないか。そもそも、公立学校にあって国旗を掲揚して国歌を歌うことは文部科学省の指導によるものであって、それを「政治的立場」だのと呼ぶようなことが「政治的発言」なのである。国旗・国家は、一部の人々がその「政治的立場」から忌避しているだけのことに過ぎない。

 仮に三条高校側を広い意味での「政治的立場」と呼んだとしても、講演をするとなれば、幾ばくかの謝金は出るだろうから、金を払ってまで自己の「政治的立場」に反抗するような話をしてもらいたいとは思わないだろうし(異なる見解を知るということは重要だが、講演の意図がそういうところにあったとは考えにくい)、何でもかんでも好き勝手自分の思ってることを喋っていいというような講演は自分で勝手に企画して喋っていればいいだけのこと。依頼を受けたのであれば、依頼主の指示に従うのが当然のことなのだし、まして相手は高校生なのだから、常識人であれば言われなくとも配慮して然るべきこと。「外部の知識人を講演に呼ぶ側が管理しようとする」のは仕方のないことでしょ。どうでもいいけど、「知識人」とか自分で言ってしまっています。それにこの言い方だと、「講演に呼ぶ側を外部の知識人が管理しようとする」のは許されるみたいに聞こえる。

 更に大江が言うには、「私は子供たちへの講演を政治的宣伝の場にするような人間ではない」。政治的発言を端っからするつもりがないのであれば、学校側からの指示は、何ら大江の講演内容を束縛するものではなく、まして「無駄」と言い切ってしまう論理が分からない。第一、大江のような政治的立場の者が「考え方をまるごと伝え」たら「政治的宣伝」になるに決まってるだろうが。要は「俺様に意見するなんて許せん!」と言ってるようにしか思えないのであることよ。

(文中敬称略)


雑感書評