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追悼 張学良


10月15日、入院先のハワイの病院で張学良が死去した。享年100歳。死因は肺炎。張学良とは、簡単に言うと、あの奉天軍閥・張作霖の息子で、1936年に西安で蒋介石を軟禁し、その後突如何故か開放して逆に身柄を拘束され、以後50有余年に亘って国民党に自宅軟禁されていた人物である。日本よりも先ず毛沢東と戦う方を優先させていた蒋介石だったが、西安事件により国共合作に向かうことになる、というのが歴史的意義なんだろうな。

少帥時代
この歴史の教科書にも登場する有名人の張学良は、大陸での中華人民共和国の成立に伴い、国民党と共に台湾に移り、以後、台北市北投区にひっそりと暮らしていた。幽閉の身であり人々からも半ば忘れられていたのも当然と言えば当然である。だが李登輝総統の時代に入っていた1990年6月1日に、張学良90歳の誕生パーティが台北のホテルで開かれ、50余年ぶりに公の前に姿を現したのである。この時のニュースは私も記憶しており、はっきり言ってまだ生きているとは思わなかったので、かなり驚いた記憶がある。慌てて『世界史用語集』を開いてみると、確かに没年は書いてなかった。

誕生日と言えば、張学良の本当の誕生日は6月4日である(大陸では3日とする説が強い。台湾では4日とされている)。しかし1928年の6月3日深夜、張作霖は山海関を越えて満洲に戻る途中、皇姑屯付近で関東軍により列車を爆破され、翌4日に亡くなった。以後、張学良は事故の誕生日を5月末に祝うことにしたとのことである。

公の場に復帰した張学良に着目したNHKは、1990年12月の9日と10日の2日間、「張学良 私の中国-私の日本」という長時間のインタビュー番組を放送した。インタビューをしたのは磯村尚徳。彼もその時は後に銭湯で老人の背中を流すとは夢にも思っていなかったに違いない。それはどうでもいいとして、そのインタビューは、かなり興味深いもので、長らく軟禁されていた割には、そして90歳の割には随分と元気な爺さんであることが印象的だった。尚、このときの模様は角川書店から『張学良の昭和史最後の証言』として刊行されている(が入手はかなり困難)。

自由の身となり、ハワイに渡った張学良だったが、昨年6月には(3番目の)夫人の趙一荻氏が88歳で亡くしている。趙夫人との結婚は1964年だが、既に1929年から事実婚の状態にあったわけだから事実上の糟糠の妻である。1964年まで結婚しなかったのは、実は張学良最初の妻・于鳳至との婚姻が継続していたからである(2番目の妻・谷瑞玉とは1931年に離婚)。

晩年
さてこの度の張学良の訃報を、一番大きく取り上げているのは中国大陸だろう。張学良は中国共産党にとっては熱烈な愛国者として扱われている。今回の彼の逝去に関する人民日報の報道では、未だに「張学良将軍」とか「少帥」と呼称され、特に故郷の遼寧省や西安事件の西安市では人々が強い哀悼の意を表しているとのことである。一方の台湾の報道を見てみると、国民党の中には張学良を未だに許さない保守派の面々も居るようであるが、こちらも「少帥」との称号を用い、素直にその死を悼んでいるように思えた。既に国民党が政権の座を降りていることも影響しているのかも知れない。尚、両岸どちらの報道も張学良の享年を数え年の101歳としていた(例えば人民日報聯合報)。確かに北京で「張学良将軍の100歳を祝うシンポジウム」が開催されたのは昨年のことである。一方、ニューヨーク・タイムズは当然満100歳で死去と報じたのに対し、BBCでは101歳ということになっていた。

あと報道で気になったのは、BBCとNYタイムズともに張学良を"Zhang Xueliang"と綴っていたことである。これは大陸で発明されたピンイン方式の綴りである。戦前に活躍した人物であり、本来は国語注音符号第二式で"Chang Hsueh-liang"と綴る方が普通だと思うのだが、大戦後暫く忘れられていたこともあり、ピンイン綴りでの再登場となってしまったということだろう。しかし逆に人民日報の英語版では"Chang Hsueh-liang Passed away in the US"と報じているのが面白い。

それにしても、1994年の愛新覚羅溥傑の訃報に続き、ああまた歴史の証人が消えたなという思いである。しかし張学良は軟禁を解かれた後も核心部分に触れる発言はしていない。そういう意味で西安事件の真相、特に何でまた蒋介石にくっついて南京にまでのこのこ着いていったのかはよく分からないままである。あとは米国でまだ健在のマダム蒋介石こと宋美齢に注目したい。彼女は当年とって104歳の筈である。

(文中敬称略)


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