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少帥時代 |
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誕生日と言えば、張学良の本当の誕生日は6月4日である(大陸では3日とする説が強い。台湾では4日とされている)。しかし1928年の6月3日深夜、張作霖は山海関を越えて満洲に戻る途中、皇姑屯付近で関東軍により列車を爆破され、翌4日に亡くなった。以後、張学良は事故の誕生日を5月末に祝うことにしたとのことである。
公の場に復帰した張学良に着目したNHKは、1990年12月の9日と10日の2日間、「張学良 私の中国-私の日本」という長時間のインタビュー番組を放送した。インタビューをしたのは磯村尚徳。彼もその時は後に銭湯で老人の背中を流すとは夢にも思っていなかったに違いない。それはどうでもいいとして、そのインタビューは、かなり興味深いもので、長らく軟禁されていた割には、そして90歳の割には随分と元気な爺さんであることが印象的だった。尚、このときの模様は角川書店から『張学良の昭和史最後の証言』として刊行されている(が入手はかなり困難)。
自由の身となり、ハワイに渡った張学良だったが、昨年6月には(3番目の)夫人の趙一荻氏が88歳で亡くしている。趙夫人との結婚は1964年だが、既に1929年から事実婚の状態にあったわけだから事実上の糟糠の妻である。1964年まで結婚しなかったのは、実は張学良最初の妻・于鳳至との婚姻が継続していたからである(2番目の妻・谷瑞玉とは1931年に離婚)。
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晩年 |
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あと報道で気になったのは、BBCとNYタイムズともに張学良を"Zhang Xueliang"と綴っていたことである。これは大陸で発明されたピンイン方式の綴りである。戦前に活躍した人物であり、本来は国語注音符号第二式で"Chang Hsueh-liang"と綴る方が普通だと思うのだが、大戦後暫く忘れられていたこともあり、ピンイン綴りでの再登場となってしまったということだろう。しかし逆に人民日報の英語版では"Chang Hsueh-liang Passed away in the US"と報じているのが面白い。
それにしても、1994年の愛新覚羅溥傑の訃報に続き、ああまた歴史の証人が消えたなという思いである。しかし張学良は軟禁を解かれた後も核心部分に触れる発言はしていない。そういう意味で西安事件の真相、特に何でまた蒋介石にくっついて南京にまでのこのこ着いていったのかはよく分からないままである。あとは米国でまだ健在のマダム蒋介石こと宋美齢に注目したい。彼女は当年とって104歳の筈である。
(文中敬称略)