【ここの概要(歴史、自然など)】
興正寺は室町時代に開かれた。境内がよく整備されていて、うつくしい。鬼怒川に近接してある。
石下城跡とは、現在八坂神社となり、一言メモの通り、住宅街のど真ん中にある。参考書に説明文はほとんど見られないが、その分、八坂神社の石碑にはきわめて充実した解説文が刻まれている。なお、この地方は板東武士発祥の地といわれ、平将門が生まれた地方でもある。
現在では城の形をした石下町地域交流センターがある。
【行ってみた感想】 2002.10
興正寺は、その場所が分かりやすい。文字が消え、サビが浮き始めているが、よく目立つ看板が立っているからだ。また、鬼怒川の堤防沿いを歩いていても、すぐそばに墓地があるのでそれも目印になる。寺の境内はよく整備されていて、今回行ったときには工事中だった。
石下城跡は一言メモの「住宅街に佇む」がキーワードで、参考書やインターネットなどで検索しても場所を特定できる情報が入手できず、最終的に八坂神社に絞り込むまでには手間取った。行ってみると言葉に違わず住宅街のど真ん中で、バイクで行って大正解。神社の拝殿に対して立派すぎる石碑があったのでびっくりした。
鬼怒川は、興正寺近辺という意味だと、テニスコートがあり、釣り人も結構来るようだ。春になると菜の花が咲く。
【看板説明文】
● 史跡 石下城跡
石下城は、天文元年(一五三二)豊田城主四郎正親が、宗祖将軍將基の遺霊を祭しさせ、近年豊田料への会食横領甚だしき、下妻多賀谷氏の抑え、豊田本状の前衛として構築し、石下の地(一万貫)を分封し、次子次郎政重を依らしめたと伝えられている。
−天文三年織田信長生る−
豊田家宗祖將基(赤須四郎)は、桓武天皇第五皇子葛原親王八代の後胤常陸大掾平重幹の第三子で、前九年の役(一〇八三)にも従軍、功により常陸多賀郡の地(現北茨城市)を賜り、孫政綱を拠らしめたと伝えられている。(現北茨城市に豊田城跡あり)
豊田氏其の勢盛んなるとき、豊田三十三郷、下幸島十二郷、筑波郡西部を領有し、十一代基安は南常陸に侵攻し、弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総野四隣を圧するものがあった。結城家は重臣多賀谷氏を下妻に配し小田・豊田の抑えとした。やがて戦国時代に突入、下克上・新興勢力の台頭あり、とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城市より独立を図り、豊田領侵略の機を窺う。
豊田氏は自衛上、先ず隣城手子丸(元豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷に対する備えとして十七代元豊は三男家基に、八幡太郎拝領の甲冑を与えて「これ、我が家の至宝なり。今これを汝に伝う。袋畑は下妻の咽喉なり。この家宝と領地を死守せよ」と命じ、豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。
豊田家十九代政親は常陸小田城主氏治の妹をめとり、親族大名として同盟関係に入り、さらに横堤東端、今の県立石下高等学校(現在の地名館出)付近に出張館を置き備えた。
豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷の攻勢激しく、豊田の旗下行田館(現下妻市)、下栗常楽寺(現千代川村)、総上の袋畑右京、四ヶ村の唐崎修理、長萓大炊、伊古立掃部、豊加美の肘谷氏などを相次いで降し、又小田の旗下にあった吉沼城を攻め城主原外記、其の子弥五郎を殺し、さらに館武蔵守の守る向石下城を攻め落す。
小田氏治を叔父とする石下政重は、元来その性勇猛にして、兄治親とともに豊田・石下を併呑しようと来攻する下妻多賀谷の大群を永禄元年(一五五八)長峰原(現豊里町)、蛇沼(現豊田)に迎え撃ち、小田氏の援軍を得てこれを撃退す。
−この頃上杉謙信と武田信玄川中島に戦う−
永禄四年石下政重は豊田、石下の連合軍五〇〇余兵を率いて、宍戸入道と相謀って、加養宿より古沢宿(現下妻市)へ進撃するも負傷し、多賀谷城(下妻城)を目前にして帰城す。
−永禄三年今川義元、信長に討たる−
永禄六年下妻多賀谷軍の岡田、猿島侵攻に抗して、石下政重は廻文す。古間木城主渡辺周防守を始めとする岡田、猿島勢これに応じ、三四〇〇余兵を以て五家千本木(現千代川村)に布陣し五〇〇〇余兵の下妻勢と激戦、勝利のうちに和睦(結城晴朝の仲裁)する等積極果敢なるものがあり、豊田本城の前衛としての責をよく果たす。
天正元年(一五七三)再び攻め寄せる多賀谷軍を金村台(豊里町)に迎え撃ち、小田の援軍を得てこれを破る。
−この年甲斐の武田信玄卒−
多賀谷軍の攻勢激しく、豊田城・石下城風雲急を告げる。小田・豊田・石下は力を合わせ戦うも、守るに精一杯で新進気鋭の多賀谷氏を打倒する程の気概はなかった。
−天正二年小田城落城−
常総の諸豪、風を望みて佐竹・多賀谷の膝下に屈し状勢悪化を辿る。天正三年九月一三日、あたら勇将政重も石下城中にて脳卒中のため、敢えない最後を遂げ、戦乱一期の花と散る。
豊田城主治親の落胆一方ならず、城の守り諸事の手配を家臣に命じた。宗祖將基以来五百有余年、さしも栄えし豊田家も命運の尽きる処か、弟政重の死に遅れること一ヶ月余り、治親も又、叛臣の謀にあって毒殺され、豊田城は多賀谷軍に乗取られる。治親婦人と幼い二子は真菰に身を包み、小舟に乗って高須賀館(現谷田部町)を経て、武蔵柿木(現埼玉県草加市)に逃れたという。
その夜、豊田家忠臣血路を開き、急を石下城に告ぐ。
多賀谷氏は時を移さず、重臣白井全洞を将に七〇〇余兵を以て石下城に攻め寄せる。
豊田・石下勢二五〇余頑強にして攻めあぐみ、一端若宮戸常光寺山迄退き、援軍五〇〇余を加え数日間、死闘を繰り返す。
豊田・石下勢形勢非なるを以て、相謀り七歳の幼君太郎正家の安泰と主殺しの大罪人飯見大膳の引渡しを条件に下妻に降る。
−この年長篠の合戦あり−
石毛太郎正家は叔父東弘寺忠園に養育され仏門に入り、のち、石下山興正寺中興の祖として天寿を全うした。寛永十二年(一六三五)六月十九日没、 法号石下院殿傑山宗英大居士。
石下城は多賀谷氏一族の拠る処となったが、天正十三年、多賀谷家の内紛により、築城五十四年にして廃城となり、後顧の憂いを除くため焼却されたといわれている
−天正十年織田信長本能寺にて自刃−
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに多賀谷氏西軍(石田方)に与するを以て翌年徳川家康に改易追放され、石下地方は徳川の天領となり、多賀谷氏の豊田、石下領支配は二十七年にして終る。
現在の八幡宮は、慶長二十年(元和元年)旧臣等宇佐八幡宮を勧請し、城跡に創祠したものと伝えられている。
−この年大坂城落ち秀頼母子自刃る−
落城の光陰いま見る四百有余年の星。所縁の苗裔数ありとも雖も、過ぎたるは多くを語らず。城地は一望宅地化して、城跡の面影、老櫃の残照土塁の一辺に過ぎず、字名の一端に窺い知るのみ。嗚呼、行雲流水ゆきて帰らず、知るはこれ極月除夜の鐘の音、諸行無常と響くなる哉。
昭和五十九年十一月 八幡神社大例祭日
石下町長 松崎良助 撰(印)
● 興正寺の沿革(茨城観光百選指定)
山号を石下山、院号を地蔵院と称し、延命地蔵菩薩を本尊とする。
開創
後小松天皇の御代、南北朝合一の成った、明徳四年八月(西暦一三九三)臨済宗として、平田慈均[ヘイデンジキン]禅師によって開かれた。
開山
後土御門天皇の御代、応仁の乱後、文明二年(一四七〇)五霞村六国山東昌寺開山、即庵宗覚禅師の弟子、能山寿聚芸[ノウザンジュゲイ]禅師を迎い、曹洞宗に改め、能山を開山第一世とし現在に及んでいる。慶安元年八月(一六四八)徳川家光公の帰依するところ厚く、御朱印地三〇石を賜り、寺門興隆の資に充てられた。
焼失
寛文五年夏(一六六五)九世交厳長泰[コウゲンチョウタイ]の代、雷災のため、七堂伽藍を悉く焼失した。「白虎の宝珠」の伝説あり。
再興
延宝六年初秋(一六七八)江戸駒込高林寺の鳳山春桐[ホウサンシュントウ]が請われて、当寺一〇世となり、荒廃せる諸堂の再建に盡し、貞享元年(一六八四)にその復興を果した。そのとき鳳山を助緑したのが、石下城主太郎正家公(寛永一二寂)で、当寺中興開基として祀られている。
堂宇の沿革
豊川稲荷
興正寺鎮守、く枳尼天[クギニテン]は、延徳元年(一四九一)開山能山禅師が三州豊川妙厳寺より勧請し奉納された尊像にして、永く山門を鎮め、能く火盗を消除し給う。享保六年四月(一七二一)には宝殿再建に関し、「気の狂った雛僧」の伝説がある。この稲荷は十一面山に祭祀されていたが、天正六年(一五七八)豊田、多賀谷両軍の合戦の際、焼き払われることを虞[オソ]れ、現境内に遷座されたものである。
薬師堂
延宝元年八月(一六七三)八世雙室和尚が、玄法庵[ゲンホウアン](中宿地内)を創立し本尊を薬師如来とされた。寛政四年三月(一七九二)一四世田栄和尚が近村六十ヶ村を勧進し堂宇を建立されたもので、昭和二十九年三月当寺二十五世松岳和尚が現境内に復元したものである。
歴住の偉業
二世洞然正徹[ドウネンショウテツ]は上郷に宗徳、随翁の二院を開山
三世曹室[ソウシツ]彗洞は吉沼に大祥寺、高須賀に永興寺を開山
四世広室祖陽は、下栗に法光寺を開山
五世傳翁尖補[デンオウピンホ]は、山田に久昌院を開山
十世鳳山春桐は興正寺の復興を果たした外、祖道の研鑽にも精進し「正法眼蔵[ショウホウガンゾウ]」を書写し、現存している。
十三世安心院蔵海[アンシンインゾウカイ]は、諸堂、諸記録の整備をなすとともに「正法眼蔵私記」を執筆され現存しているが、眼蔵研鑽に欠くことのできない宗宝とされている。
史跡
鎮守府副将軍豊田四郎平政幹公の墳碑
石下城主、石毛次郎政重、太郎正家父子の墓と 石下院殿潔山宗英大居士の開基碑がある。
【備考】
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