No. 98 長塚節の生家

ながつかたかしのせいか

一言メモ 農民文学の傑作「土」を生んだ風土
市 町 村 石下町
東  経 139.56.30.1
北  緯

36.07.49.9


 詳しい地図↓

 

最終更新日:2003.2.5.

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長塚節生家の門


案内所

【ここの概要(歴史、自然など)】

 長塚節は1879(明治12)年4月3日生まれ、1900(明治33)年に正岡子規に入門し歌を書いていたが、後に小説を書くようになり、アララギ派に所属した。1910(明治43)年、夏目漱石の推薦で朝日新聞に約5ヶ月の間、『土』を連載した。『土』は常総の貧しい農民を写実的に描いたもので、農民文学の傑作とされている。37歳で病没している。
 生家は茅葺き屋根で、節が愛用した品々が当時のまま保存されている。

【行ってみた感想】 2002.11

 ここに訪れたのは97年4月以来二度目。
 ここ長塚節の生家は、いまでも一般の住居であるので、不法侵入は厳禁。住んでおられる方は、長塚節の姪の方。見学をしたい場合は、ちゃんと声をかけてからにしましょう。見学時間は午前10時から午後4時まで。金曜日は午後のみで、日曜日は午後2時で終わり。案内書に人がいれば、そちらに声をかけてください。
 97年の当時、そのおばさんに「百選全部を巡ってHPで紹介しようと思っているんです。」なんて大口をたたいたのですが、結局5年以上もかかったことに(T_T)。
 で、見学をするのはいいのですが、目的が「百選制覇」であるために、「土」を読んだことがなく、今回行ったときには「実は読んだことがないんです。」と告白すると、「ああ、40歳を超えないと理解できないかもね」と軽くいなされてしまいました。(^_^;)
 おばさんと世間話をしていても結構楽しいです。この地方の昔話とか聞かせてもらえます。
 駐車場と公衆トイレ完備。

【看板説明文】

● 長塚節
 長塚節は、明治十二年四月三日茨城県岡田郡国生村(結城郡石下町国生)に父源次郎、母たかの長男として生まれた。国生は鬼怒川の西岸台地にあり、そのころは櫟木林に囲まれた不便な村落であった。当時長塚家は、多くの土地を所有していた豪農で質屋などの営業もしていた。父源次郎は自由民権運動にも参加し、県会議員に数回当選し議長もつとめた政治家であった。
 節は村の尋常小学校から下妻の高等小学校を経て、明治二十六年水戸の茨城県尋常中学校(現水戸一高)に首席で入学したが、健康がすぐれず四年に進級して退学した。節は、文学好きで三歳にしてすでに百人一首を暗唱したといわれ、療養中にも文章会を作り文章や歌を発表した。
 明治三十一年頃には、正岡子規の歌論の清新な論調に感銘思慕し、同三十三年に子規を訪ね教えをうけることとなった。明治三十六年には、伊藤左千夫らと「馬酔木」を創刊するなどして節の大活躍の時代となる。さらに健康回復のため西行や芭蕉の旅にあこがれ全国行脚が始まる。そして、写生文をまとめ「月見の夕」に次いで「土浦の川口」「利根川の一夜」など十編を発表した。
 明治四十一年「アララギ」を創刊し、歌から小説へを意欲を燃やしたこの間長年にわたる父源次郎の政治活動で失った財産の回復を計るため炭焼き、竹林の研究も行われたが、かんばしくなかった。
 小説では、「芋掘り」に続いて「開業医」「菜の花」「おふさ」「教師」「太十と其の犬」などを書き上げ、「土」への準備がなされた。
 明治四十三年六月十三日から十一月十七日まで一五一回にわたり朝日新聞に連載小説として「土」が発表された。節は、これを病気とたたかい経済復興ととりくみながら精魂をこめ書き続けた。後に単行本「土」が出版され、その序文に夏目漱石は、「先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものではないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色してみた。すると、矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。」と書いている。こうして「土」は日本近代文学史上に一大傑作と高く評されている。
 明治四十四年には、結城郡山川村山王(結城市山王)の黒田てる子との婚約が成立したが、病気のため自ら婚約を解消し療養を続けた。翌年九州大学で診療をうけるために長旅につく、家族のこと、病気、婚約解消と苦しみ、悩み多い生活の中で生み出したのが不朽の名作「鍼の如く」である。「土」に続いて死刑囚をモデルにした大作を構想したというが、大正四年二月八日九州大学の病院で三十七歳の若い一生を終えた。/石下町/石下町教育委員会

【備考】

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