【ここの概要(歴史、自然など)】
ここは10世紀頃、豊田のお殿様が夢に見て、京都の加茂別雷神社御分霊を奉迎したもの。小貝川のほとりにあり、神域には桜が植えられている。別雷大神は退魔、病難退散、福徳招来、五穀豊穣の神として信仰されている。特に雨乞いの神としての信仰は篤い。
【行ってみた感想】 2002.8
一言メモにある「春の大祭」に行ったわけではない。桜が植えられている参道の脇に、若干の広場がある。ここで神事をするのだろうか。
場所は、少し小さな道の先にあるので、地図をじっくり見てからでなければよくわからないかも。小貝川沿いに探すのがコツ。
細かいところはさておき、猫がたくさんいる。猫好きとしてはうれしい限り。
【看板説明文】
● 金村別雷神社
当社は承平元年(九三一)時の領主桓武帝の皇孫豊田公が霊夢に感応ただちに西京加茂別雷大神の御分霊を奉迎この地に鎮祭したという。
その後豊田四郎將基[まさもと]、源頼義・義家父子の副将を拝命 康平五年九月衣川の激戦に河水満漲[まんちょう]して甚だ悩んでいた時、旗印の神竜忽ち橋を出現させ、さしもの堅陣を壊滅させたという。これこそ御冷泉帝から下賜された「つぐみ竜」紋の神旗で当社の重宝となっている。
祭神の別雷大神[わけいかづちおゝかみ]は雷を支配統御する神で、霹靂[へきれき]一声正邪を正し悪事災難を消滅させる荒魂[あらみたま]と、旱天[かんてん]に慈雨を恵んでやまない和魂[にぎみたま]の剛温両面の神格を有することで知られ、金村様別雷神様と親しまれて、日参、月参、年参の風を今に伝えている。明治六年郷社に列格、昭和五年に奉齊壱阡年祭を厳修した。昭和五十五年の奉齊壱阡五拾年を迎えるに当たり奉賛会を結成、氏子・講中・崇敬者各位の御協賛により千載に遺る意義深い記念事業を完遂した。
協賛者各位に深甚なる謝意を表する次第である。
例大祭 春季大祭 旧暦三月十五日
秋季大祭 十一月二十三日
御目覚祭 一月一日 元旦祭
● 県指定文化財 建造物
金村別雷神社本殿・拝殿・神楽殿・回廊
当神社の創建は承平元年(九三一)といわれ、伝承由来は拝殿前の祈念碑に記されている。
当神社は、中世から戦国時代の約五百年間当地方を支配した豊田氏ゆかりの神社であり、その事跡は江戸時代の上郷村明細帳その他の古記録、及び幕府制定の元禄国絵図にもその所在が載っている。
豊里町文化財指定の本殿は宝永五年(一七〇八)の建造であり、拝殿・神楽殿・回廊は明治十二年(一八七九)の再建である。
当神社は明治六年(一八七三)郷社となり、神域は昭和二十五年(一九五〇)、茨城百景に選定されている。/昭和五十五年三月
豊里町教育委員会/金村別雷神社
● (研究学園都市と民族文化ライン)金村別雷神社
当神社は承平元年、時の国主豊田公が霊夢に感応ただちに西京加茂別雷大神のの御分霊を奉迎この地に鎮齊したという。その後豊田四郎將基、源頼義、義家父子の×××の副将を拝命、康平五年九月衣川の激戦に河水満漲してはなはだ苦戦していた時、旗印の神竜忽ち橋を出現させさしもの堅陣を壊滅させたという。これこそ御冷泉天皇から下賜されたつぐみ竜紋の神旗で、当社の重宝となっている。
祭神の別雷[わけいかづち]大神は雷を支配統御する神で、霹靂[へきれき]一声正邪をただし、悪霊災難を潰滅させる荒魂[あらみたま]と、旱天に慈雨を恵んでやまない和魂[にぎみたま]の剛温両面の神格を有することで知られ、×近の参拝者はすこぶる多く、日参、月参、年参の風を今に伝えている。
【備考】
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