No. 87 逢善寺と森

おうぜんじともり

一言メモ 江戸後期の代表的仏閣建築
市 町 村 稲敷市
東  経 140.19.10.0
北  緯

35.55.26.5


 詳しい地図↓

最終更新日:2004.4.4.

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観音堂


観音堂(アップ)


境内


仁王門


仁王像(阿)


仁王像(吽)


鐘付き堂


朽ちた建物


「森」?

【ここの概要(歴史、自然など)】

 西暦825(天長2)年、最澄が天台宗を開いた。その翌年の826(天長3)年、弟子の逢善道人がここ法善寺を創建した。その後、関東一の事業を誇る勅願寺になった。天台宗門関東八壇林の一つ。
 今の本堂は、1842(天保13)年、建設されたもの。観音堂と兼ねたもので、観音堂としては日本一広いと言われている。実際、目の前にしてみると、威圧感を感じるほどに大きいもの。多分、茨城県内で一番大きな仏閣なのではないだろうか。
 仁王門は太田道灌が江戸城築城の時に建立したもので、1869(明治2)年、東京の山王日枝神社から移築された。その際、運慶の手になるといわれる金剛力士も一緒に来た。この仁王像は、県内で一番古い。県の指定文化財。
 地元では「小野の観音様」と呼ばれ、親しまれている。正式には慈雲山法善寺。
 「森」ですか?森は本堂の後ですか?

【行ってみた感想】 2001.8

 駐車場はあんまり広くないです。行くたびに、道に迷いがち。
 さて、写真では実感がわかないだろうけど、本堂はかなりでかい。少なくとも、百選に選ばれている寺の中では一番でかいと思う。今回行ってみると、仁王門前の説明版は、すっかりかすれて読めなくなっていた。前回行ったときには読めた記憶はある。仁王門自体は、修復をしたらしく朱色が鮮やかになっていた。今回子のページを作るまで、そんな由緒正しいものだとは思っていませんでした。(^_^;) ちなみに、山王日枝神社は、つい最近まで近くで仕事をしていたので、非常になじみ深い。百選を巡っていると、日本全国にすこしずつ、関係カ所が増えていくよな〜。
 上の写真で右側には鐘突き堂があり、その更に向こう側には、藁葺きの立派な建物もある。左側には、朽ちかけた建物がある。前回来たときにも朽ちかけていたが、なおいっそうひどくなった。囲いがしてあり、近づかない方が安心だろう。その向こうは墓地。
 ちなみに、「森」というのは、よく分からない。本堂の後でよいのだろうか?
 寺には説明用の看板がある。字の多さから情報が豊富と思っていたが、いざワープロで起こしてみると、表現が古く、句読点もなく、極めて難解。最後まで読む人はどのくらいいるのだろう?

【看板説明文】

● 当山由緒
当山は人皇五十三代淳和天皇の御宇 天長三年(西暦一、一五一年)逢善道人の開基にして千手観世音菩薩を安置し恒に経典を謡し全念なし偶、覚叡上人本山より来り玄談妙合親善を交居ること久し道人の嘱を受け草葉を開き丘朧夷け教線を張り村民の敬仰日に篤く霊験殊に著し其頃常陸の国司小野篁郷上洛の砌り奏聞に達し序住持覚叡召し出され霊験の詳界を御諮尋あらせられ叡感浅からず篁に御命を下し堂宇を創立の上寺田八百町を賜り以て勅願所定められたり是より先き淳和天王第三の皇女幼沖にして眼疾を憂させらるるに当たり篁の奏聞に依り観音の霊験を聞召し鳳興を当地に啓せられ皇女共奏一同の熱心なる祈誓により眼疾忽ちに愈るを獲たり御喜悦斜ならず遂に奥を駐め落飾して宮庵を構ひ寂光院政所と称せられ当地に奉せらる照れを距つ一五〇〇米許り姫宮坪あり往昔より小祠を祭る今尚存せり是れ即ち其古墳墓なりと伝ふ尓来世の治乱に依り我夛の興庵を閔し天文八年火災に遭ひ間も無く江戸崎城主土岐○英再興す慶長七年徳川家康より朱印地三百石永哉○となる当時は当山第拾五世五興の名僧定珍僧正の時代に修復文応七年又尖す天保拾三年方拾間四面の堂と再造し観世音と安んずること旧の如し棟梁は江戸の名工泉長○エの作なり当山は関東八ケ檀林四ケ寺の随一と稱せられ拾万石の格式を付興せらる地内に三十六坊の末寺三百余ケ寺に及ぶ然も明治の廃藩により大部分の耕地を奉還す又太平洋戦争於耕地を解放す隋己むを得ず原野を開田し辛うじ寺門の運勢を計る○状態なり目下○○にて雨漏を防ぎつつあり依って大改修を施して名工の作為の堂宇を修理したいと日夜念願いたしている次第であります。請い願くは大方有信各位の御喜捨を懇願致す次第であります。 合掌
  昭和五十三年八月吉○ 慈雲山逢善寺

【備考】

 関連サイト: 新利根町      
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