【ここの概要(歴史、自然など)】
ここは看板が充実している。この周辺の歴史については一番下、神社の由緒についてはいちばん上がわかりやすいかも。
かいつまんでいうと、江戸時代には利根川は江戸の水運を担っていて、多くの人が往来していた。息栖はその一つの要を担っていて、交通安全の祈願などのために、数多くの人が参拝した。というところでしょうか。
現在では水運は廃れ、この地域は主要道路からはずれているため、地味な地域となっている。鹿島神社と並ぶ神社の割には訪れる人が少ない。
【行ってみた感想】 2002.2
入り組んだ道の果てにある。閑静な住宅街、というか、地区の真ん中にある。駐車場は結構広い。神社の作りに派手さがなく、社殿も落ち着いた作り。一方で、昔の碇や芭蕉句碑、力石などがある。また、社殿から少し離れた利根川川岸には日本三霊泉の一つがある。
利根川川岸は、静かなもので、草むらに座って川の流れを眺めていると、時間の流れを忘れそう。
【看板説明文】
● 息栖神社
息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年、右大臣藤原内麿の命により現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑篠、授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは息栖神社のこととされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関連を物語っていると思われる。
社殿は享保八年に建替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八年五月に新たに完成した。末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。
*祭日*
一月一日 元旦祭、一月七日 白馬祭、二月(立春) 節分祭、三月六日 祈念祭、四月十三日 例祭、六月三十日大祓、八月二十七日 風祭、十一月十三日
秋祭、十二月三日 献穀祭、十二月三十一日 大祓/昭和五十九年三月 神栖町教育委員会
● 息栖神社の由緒について
息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神、天鳥船神を相殿の神として祭られてある。
古くから国史にも見え鹿島香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社である。
岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神としての御神徳が顕著で神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れさせられ御守護下さるものである。
社前の水中(川岸)に日本三霊水の一の忍塩井がある。俗に女瓶男瓶と云って、水中(川岸)の鳥居の中(一の鳥居の両側)にあって、この瓶から清水の湧き出でるが男瓶は銚子の形で、女瓶は土器に似て、一説には神代のものと云うが、常に水底に沈んで居り、晴天水澄む日でなければ見えない。
● おきすの津(港)と碇
大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ(柿本人麿)
今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖に 風向うなり(藤原家隆)
広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)と呼ばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立ち寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。この碇はそうした祈りをこめて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。けれども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と板東(関東)との間にたって、物資輸送に励まされた船人の、遠い昔を偲ぶ手がかりとなっている。
帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)
昭和六十二年二月 神栖町教育委員会
● 力石
この力石は春秋の祭り夏の昼休み・夕涼みがてらに集った若者達の力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の三十貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。
● 芭蕉句碑
この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し
俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享四年(一六八七)八月十四日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。
この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、その年月は不明である。
句の意味するもの
いざなぎの尊が、黄泉[よみ]の国(死の国)からもどったとき、筑紫日向の橋の小門[おど]で、身体を洗い、きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。
このいわれにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りも、わだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。
昭和六十一年三月 神栖町教育委員会
● 忍潮井(おしおい)
忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり神功皇后の三年(一九四年)に造られたものと云われあたり一面海水におヽわれていた頃真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させて清水が湧出しているところから、忍潮井の名がつけられたと伝えられている。水と人類とのかかわりの中で最も古いかたちの井戸であり日本三霊泉の一つと云われております。
「形状」男瓶は経二米弱、白御影石で銚子の形をしている。女瓶はやヽ小振りで土器の形をしている。
「三霊泉」常陸の忍潮井・伊勢の明星井[アケボノのイ]・伏見の直井[ナオイ]
「伝説」その昔(平城天皇の御宇大同二年四月(八〇四年)数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際とりのこされてしまった男・女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を溯ぼり一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云うこの地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。日川地区には瓶の鳴き声をそのまヽの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜しんで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。
奉納 平成十年十二月 糟谷武士
● 風の音の遠き御代より 詣で人水際に仰ぐ 畏きや息栖の宮の大鳥居 大いなる鹿島開発の歩みの中に 地に穿つ柱太知り 秋宝に笠木高知り 今ぞ築き建つ
昭和四十七年十月
● 息栖神社と河岸
江戸時代に入るまでの利根川は一本の川ではなく、利根川は直接東京湾に注ぎ込み現在の利根川中・下流は常陸川と呼ばれていました。この二つの川が改修工事によって一本の河川となり、江戸への運路として成立したのが承応三年(一六五四)のことです。当時の江戸は急激に人口が増え、一大消費地となっていました。商品や農・水産物の多くは利根川を舟運によって上下し、その集散地となったのが川岸に点在する「河岸」でした。
利根川の舟運は物資の輸送に役立っただけでなく、旅行者にも大いに利用されました。この息栖河岸には東国三社参詣の人々や下利根川地方遊覧の人々が各地からおしよせ、大変なにぎわいをみせたのです。
これらの人々を乗せて利根川を上下したのが「木下茶船[きおろしちゃぶね]」と呼ばれた乗合船・遊覧船でした。木下河岸から船出する船は、江戸中期には一日平均十二艘、年間約一万七千人あまりが利用したということです。男甕[おがめ]・女甕[めがめ]の忍潮井も神社とともに有名になり、伊勢の明星井、山城の直井とあわせて日本三所の霊泉と言われ、人々の評判となりました。旅人の中には松尾芭蕉を始めとして、多くの文人・墨客もこの息栖神社をおとずれ、その足跡を残しています。息栖河岸はまさに町域の玄関口であり、物資や人々の往来とともに江戸の文化や情報をもたらしてくれていたのです。
平成五年三月 神栖町教育委員会
【備考】
|