No. 73 竪破山

たつわれさん

一言メモ 点在する奇石を巡る楽しさ
市 町 村 日立市
東  経 140.33.57.6
北  緯

36.42.27.1


 詳しい地図↓

 

最終更新日:2002.6.20.

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2の鳥居


不動石


烏帽子石


手形石


畳石


あかめやき釜


弁天池


仁王門


甲石


舟石


黒前神社


展望台からの遠望


胎内石


太刀割石


神楽石


奈々久良の滝


駐車場

【ここの概要(歴史、自然など)】

 ここは、説明看板が充実しているので、歴史・伝説については下記を参照してもらいたい。
 幹線道路から離れたところにあるので由緒あるいわれの割には訪れる人が少ないが、ハイキングとしてちょうどよく、頂上展望台からの景観もよい。コース沿いにある奇石は見ていて飽きない。

【行ってみた感想】 2002.2

 95年、最初に行ったときには、駐車場に小さな説明看板があるくらいだったが、最近では立派な看板がいくつか立っている。
 ハイキングのコースは結構長くて、一度に全部を見たことはない。これまで行ったのを全部足して、とりあえず見るべきものは見たかなといった感じ。
 奇石の中でも太刀割石は圧巻。というか、大きな丸い石なので、転がってしまうのではないかと心配。(^^;)

【看板説明文】

● 堅破山観光案内
・花園・花貫県立自然公園内 堅破山(たつわれさん)
・標高658メートル
・茨城県多賀郡十王町大字黒坂
堅破山のいわれ
 寛治元年(1087年)八幡太郎義家が奥州遠征の途中黒崎神社で一夜戦勝を祈ったところ神様が、夢に現れ一振りの刀を授けた。
 この刀で山中にある大石を斬りつけたところ真っ二つに割れ、この石が太刀割石を呼ばれ、山の名もそれが転化し、堅破山となったと言い伝えられる。
 また、「常陸国風土記」黒坂命が蝦夷を平定するため、「茨刺」(うばら)で穴を塞ぎ、敵を攻め滅ぼしたことにちなんで、「茨城」の地名が起こったとされている。
黒前神社のいわれ
  崇神天皇の時代、多歌群の角枯の山(現在の堅破山)は、戦勝の地として知られ、(クロサカノミコト)が蝦夷征伐の凱旋の途中、この山をわざわざ訪ね戦勝祈願をしており、平定後、そのお礼参りのために立ち寄り、この時黒坂命は病気にかかり亡くなったとされている。角枯の山は黒前の山と名付けられ、現在、この堅破山には黒坂命が祀られている。
展望台
 堅破山の頂上、標高658.2mにあり、晴天の日には富士山を見ることもできる。前方の山並を越えて太平洋が一望でき、ここから見る日の出の景観には素晴らしいものがある。遠くの福島県の小名浜海岸、常陸神峰山、大煙突、常陸太田の真弓山、大洗夏美の海岸等、遠望できる。
堅破山の名勝
@烏帽子石:八幡太郎義家が堅破山の神霊に参拝したときにかぶっていた烏帽子に似ていたことから名付けられた。
A畳石:八幡太郎義家が腰を下ろして休んだところから、腰掛け畳石と呼ばれた。また、堅破山で修行中の修験者が座禅をした石ともいわれている。
B太刀割石:八幡太郎義家が、陸奥の蝦夷の乱を鎮めるため、堅破山に登り戦勝祈願をした折り、太刀の前庭に陣を引いて野宿した。義家は深い眠りの中で「黒坂命」と出合い、目が覚めると、一振りの黄金づくりの刀があった。その刀を振り下ろすと大石は、びしっびしっと不気味な音を発し真っ二つに割れた。一説にはこのことにより、「堅破」の名が起こったともされている。大きさは7m×6m、周囲約20m
C神楽石:「堅破山絵図」(元禄4年)では「まいまい石」といわれていた。堅破山の神霊が浜降りの時、折橋の氏子に神輿をここで渡し、一休みをしながら、お神楽を奏し、神楽舞をしたといわれている。
D甲石:「堅破和光石」といって、薬師如来が隠されている石として信仰され正面に石をくりぬいた祠があり、その中に薬師如来の12神将像(現在は6体)が祀られている。「堅破山」の名に由来した石である。
E舟石:舟形をしていることから名付けられた。
F胎内石:黒坂命が陸奥遠征の帰路、山の麓で疲れていた体を休めていた時、一人の童子が馬を引いて通りかかり、あまりにも疲労した様子の命を見て、その馬の背に乗せ、急坂の山肌を一気に駆け上がり、この岩窟に命を休ませたといわれている。
G弁天池:水源は池の上台に繁茂するブナの原生林といわれ、標高5百メートルの高所に湧き出た水とされている。池の側には弁天社が祀ってある。
H仁王門:門前には、仁王様の姿がなくて左大臣の木像があります。これは、仏教を抑圧する「廃仏毀釈」の中にあって仁王様を守ろう、後ろに隠して密閉し、表には右大臣、左大臣の木像を安置して、随神門と名前を変え、門前に石の鳥居を建てて神社形式にするという苦肉の策できりぬけ現存しています。
 普通の仁王様は総じて朱色であるが、この仁王様は目のふちだけ僅かに赤みを残して、あとは御影石の地肌のままの姿でたっている。

● いばらき森林浴の道No.10 堅破山
堅破山(たつわれさん)
 久慈・多賀両郡の間にそびえる標高658mの山で、北の花園山、南の神峰山に連なり「花園花貫県立自然公園」に含まれます。
 慶長3年(1598年)徳川氏が天下をとるまでは、常陸地方は佐竹氏が領有しており、830年頃から布教した仏教の山岳信仰の霊場のひとつでした。山内には、それら修験僧の墓が現存しています。
  この山は、大昔から「神の山」として崇められ山の名を「角枯山(つのかれやま)」といい、黒坂命が凱旋途中に病により亡くなった地であり、八幡太郎源義家が奥州征伐へ向かう時、戦勝祈願をした地という伝説を残しています。
 また、常陸国風土記では、黒坂命が土賊(洞窟を住処とする凶暴な者で罪もない人々を殺すなど悪行を重ねていた)を、野に生えていた茨 (いばら〜とげのある低木で作った柵)で塞ぎ退治したことから「いばらき」の地名を残したと言われ、信仰と伝説の山とされています。登山道に点在する巨岩奇石は、水戸光圀翁により「三滝七奇石」として、その名がつけられています。登山道850m地点からは、ブナ原生林が生育するなど貴重な自然を残す山でもあります。
@烏帽子石(えぼしいし)
(横7m×暑さ1.5m、上部斜面の縦3m)
八幡太郎源義家が堅破山の神霊に参拝した時、かぶっていた烏帽子に似ていたことからこの名がつきました。
A畳石(たたみいし)
(横8m×厚さ2.46m)
畳を積み重ねたように大きな石が4段に裂けるように割れています。
八幡太郎源義家が腰をおろして休んだので「腰掛け畳石」と呼ばれたことに由来しています。後に、堅破山で修行をしていた修験僧が座禅をした石とも言われています。
B太刀割石
(縦直径7m×横直径6m×高さ2.5m)
永保3年(1083年)、八幡太郎源義家が奥州征伐の折、戦勝祈願のために堅破山に立ち寄り巨石の前で陣を引いて野宿していると、夢の中に黒坂命が現れ大太刀を差し出しました。目覚めた義家が自分の前に置かれた大太刀をひとふりすると巨石がまっぷたつに割れたと言われています。元禄3年に隠居した水戸光圀翁が元禄6年(1693年)にこの山に登ったおり、「最も奇なり」と感銘し石の名をつけたと言われています。以前は「磐屋(いわくら)」と言って、神の宿る石として信仰され、石の回りにしめ縄を張りめぐらし、みだりに石の上に上ることはできませんでした。
C甲石(かぶといし)
(高さ3.5m、外周12m)
元禄(1688年)以前は「堅破和光石」と呼ばれ、薬師如来が隠されている石として信仰され、正面に石をくりぬいたほこらがあり、その中に薬師如来の十二神将像(現在は6体)が祀られています。水戸光圀翁が仏教色の強い「堅破和光石」を「甲石」に改名したと言われています。
D舟石(ふないし)
(長さ4m、幅1.5m、厚さ右50cm・左90cm)
甲石の前にあり、土に半分埋まっているような舟型の石でその形が珍しいとされています。
E胎内石(たいないいし)
黒坂命が陸奥(蝦夷)遠征の帰路、山の麓で疲れていた体を休めていた時、一人の童子が馬を引いて通りかかり、あまりに疲労した黒坂命を見てその馬の背に乗せ、急坂の山肌を一気に駆け上がり、この岩窟に休ませたことから「胎内」という名がついたといわれています。
F神楽石(かぐらいし)
元の名を「まいまい石」と言い、堅破山の神霊が浜降りの歳、折橋の氏子の人たちにこの場所で神輿を渡し、一休みのためにお神楽を奏し、神楽舞をしたとされ、石の名になりました。
不動石(ふどういし)
(横8m×縦3m×高さ1.5m)
盤上に不動明王の石像が祀られ、その足元をきれいな清水が流れ落ちています。この石像は、明治になってから祀られたもので、石そのものはもともと黒前神社の祭神が浜降りの時、神輿の休み場所であったといわれています。
手形石(てがたいし)
(横0.9m×縦1.4m×高さ1.5m)
石いっぱいに右手5本の指の跡が深くえぐられているように見えます。八幡太郎源義家が石を押した時についた手形と言われています。
仁王門(におうもん)
明治2年に建てられた明神鳥居のすぐ上に木造の門があり、門前には右大臣・左大臣の木像が配置されています。門の呼び名である仁王様は右大臣・左大臣の後方にある畳半畳ぐらいの板張りの囲いの中に収蔵され僅かに格子窓を透かして見ることができます。以前は、仏教像である仁王様が堂々と配置されていましたが、慶応4年(1868年)3月に発布された「神仏分離令」によって黒前神社として継承され、神社形体の随身門として右大臣・左大臣に置き換えられました。本来は処分されるべき石像の仁王様を隠しながらも大切に守ってきた背景には仏教霊場として佐竹時代に広く恩恵を受けた地元の強い信仰がうかがえます。現在に残す神仏混淆の珍しい門となりました。

● 堅破山黒前神社由来
 標高六五八米の堅破山は多賀久慈両郡の間に聳(そび)え、往昔はつのがれ山といヽ巨石信仰の霊場であった。
 山上には常陸風土記にいう黒坂命を祀る黒前神社があり山中には七奇石三瀑の名勝がある。黒坂命の事蹟については東夷征討の武将として奥羽遠征の帰路この山にて客死しよって山上に命の霊を祀り毎年旧四月八日例祭を行い七年毎に「磯神御幸大祭」が行われる。七奇石は「烏帽子石」「畳石」「甲石」「舟石」「胎内石」「神楽石」「太刀割石」で太刀割石は一名将軍石ともいわれ昔八幡太郎義家が神授の刀にて巨石を割ったという伝説から山名にしたという。三瀑は「不動滝」(奈々久良滝)「剣滝」「龍馬滝」である。頂上からの遠望東に太平洋、南、神峰、高鈴、真弓、筑波、加波の諸山。西、金砂、八溝、日光、那須連峰等を望むことができる。
  昭和六十三年四月吉日 黒前神社奉賛会

● 記念碑
 祭神黒坂命を祀る黒前神社は、大同元年、坂上田村麿により神社再興され、平貞盛、源義家亦崇敬し、佐竹義昌信仰厚く元禄六年西山公登山の折、当山は水戸城の艮位に当り、鎮護国家の霊地とし、山内を巡って七石三瀑を定め、天保年間景山公山王権現を改め黒前神社と称するなど昔より信仰の山として人々に崇められていたが、大東亜戦後は訪れる人も少なく社殿もあれて、氏子一同再建を夢見て久しく実現の方途もないままいたところ、昭和六十一年十王町と日立市が合区するに及んで日立市出身で茨城県議会議員第七十七代議長の岡部英男先生が登山され、この由緒ある神社を朽ち果てるに任せておくはしのびがたい、素ばらしい歴史と伝統を子孫に伝えたいと同士と計らい浄財をつのり、氏子も亦その熱意に動かされ奉賛会を結成し再建を計画し、神社拝殿、釈迦堂の改修、札所、便所、駐車場の新設、道しるべの建立を見るに至りました。ここに概要を記して記念とします。
  昭和六十三年四月吉日
  堅破山黒前神社奉賛会長 佐川秀彦 撰文

● 堅破山あんない(現存せず
概要 ○公園名−花園花貫県立自然公園
    ○標 高−658メートル
    ○位 置−茨城県多賀郡十王町大字黒坂
堅破山と黒前神社にまつわる史実・伝説
 堅破山は、大昔から神の山としてあがめられ、神世時代には角枯山といわれ、佐竹時代には、仏教信仰の霊山でもありました。今の神社形態になったのは、明治維新以後でそれまでは神仏混交の山であったことが神社の外にある仁王門、釈迦堂に示されております。
 山頂の黒前神社には、黒坂の命が祀られています。黒坂の命は紀元前80年頃の人で、大和朝廷に仕えた大臣族の出身といわれ、常陸風土記には、今の東茨城郡辺の土賊、山の佐伯、野の佐伯が世を乱した時、野に生えていたイバラの木を用いて賊を滅し、いばらきの地名を残した人、と書かれております。その命が奥州遠征の帰路、この山のふもとで急死したのでその霊を山上に祀ったといわれております。(そのお は稲敷郡美浦村大塚に今も残っております。)
 山頂近くにある二つに割れた形の大きな石は、寛治元年(1080)に八幡太郎源義家が奥州遠征の途中、黒前神社に参拝し戦勝祈願をした時、霊夢により授かった太刀で割ったと伝えられています。その後、1650年頃に水戸光圀が領内遍歴の折、山中に七つの奇石と三つの滝の名勝を選んだ時、この石を太刀割(たちわり)石と名づけたといわれております。後に、ことばのなまりによりたつわれと呼ばれ、現在の山名になっております。

【備考】

 関連サイト: 茨城県林業技術センター      
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