No. 58 瓜連城跡と常福寺

うりづらじょうせきとじょうふくじ

一言メモ 門前町の名残を今に伝える
市 町 村 那珂市
東  経 140.27.18.2
北  緯

36.30.1.3


 詳しい地図↓

 

最終更新日:2004.8.30.

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門前の寺門


山門


参道


境内


本堂


城跡(土塁跡)

【ここの概要(歴史、自然など)】

 南北朝時代の西暦1336年1月、南朝に汲みする楠正家が、関東地方での南朝の拠点としたのが、ここ瓜連城。佐竹氏は北朝側で、約1年間戦いを続けたが、同年11月佐竹氏に破れ、城はなくなった。
 常福寺は同じ年の西暦1336年、少し離れた場所に開かれたが、ここでの戦いの約50年後の1388年、火事で焼け落ち、その後佐竹氏によってここに移されたのだという。その後、天皇の勅願所となったり、家康の御朱印をもらったりと、ちょっとそうは見えないくらいに歴史深いところ。
 最近では、昭和33年に火事に遭い、鉄筋コンクリートの本堂となった。

【行ってみた感想】 2001.5

 門前町の名残を今に伝えると言うことだが、今となっては、写真のような門しか残っていないのだろうか。写真の奥に見える屋根が常福寺の正門。ここから先がずっと城跡となるはずだが、境内は寺だし、奥に行かなければ城跡という感じはしない。その裏手の広場だが、本堂の脇を抜けていくことになる。更に奥は急斜面になっていて、景観がよい場所もなきにしもあらず。
 ここに限らないことだが、昔の様子をとどめているところというのは、徒歩を中心とした生活空間の組立をされているため、自動車で行き来するにはかなり狭く感じるものだ。ここの近辺にも狭いところがあったりする。

【看板説明文】

● 県指定史跡 瓜連城跡
  指定年月日 昭和九年十二月十八日
  所 在 地 那珂郡瓜連町大字瓜連
        字入門前一二二一〜一二二二番地
  管 理 者 常福寺

 延元元年(一三三六年)正月、南北朝争乱のさなかに、南朝の中心楠木正成くすのきまさしげの一族楠正家がこの地によって約一年間、北朝方の佐竹氏と戦った。正家は同年十二月、佐竹勢に包囲され、那賀なか城主 那珂五郎通辰みちとき)の援護のもとに応戦したが、佐竹義篤さたけよしあつに破れ、廃城となった。
 現在、常福寺の境内になっている所が、瓜連城の本丸跡とされている。土塁と堀は比較的よく保存され、北東面は急な崖となっておりその下の水田面との標高差は約二〇メートルである。土塁は二段に構築され所々に一種の小さな出丸(武者溜)のような平坦なところがある。
 また、区域内には数多く土塁の残存遺構がみられ、これらを外郭と考えると、東西南北それぞれ七〇〇メートルほどになり、大規模な城郭であったことが想像される。

● 常福寺
  宗      派 浄土宗常陸総本山
  国指定重要文化財 紙本着色拾遺古徳伝
           絹本着色法然上人画像
 延元年間、了実上人りょうじつしょうにん春日川かすがわのほとり(瓜連白蓮塚付近)に創建したと伝えられ 佐竹義篤 は寺地、仏供料を寄進して祈願所とした。元中五年(一三八八年)類焼にあい、その後間もなく、ここ瓜連城跡に再建された。宝徳四年(一四五二年)後花園天皇の勅願所となり、慶長七年(一六〇二年)徳川家康から寺領百石の御朱印ごしゅいん賜り、関東十八檀林の一つに列せられた。
 旧暦九月二十六日には、常福寺二世 了誉上人 の遺徳をしのび、二十六夜尊(六夜さん)の大法要が毎年行われている。
  瓜連町教育委員会

【備考】

 関連サイト: 瓜連町商工会      
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