No. 56 村松虚空蔵堂と村松海岸

むらまつこくぞうどうとむらまつかいがん

一言メモ 片目ゴイと弘法伝説が残る
市 町 村 東海村
東  経 140.36.7.3
北  緯

36.26.46.9


 詳しい地図↓

村松虚空蔵堂

村松海岸

最終更新日:2002.3.27.

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虚空蔵・正月のにぎわい


奥の院と三重の塔


大神宮


虚空蔵境内


山門と鳥居


村松晴嵐の句碑

【ここの概要(歴史、自然など)】

 ここは、茨城百選はもちろん、古い百景、水戸八景、東海十二景のいずれにも挙げられている。
 十三参りという、この地方に独特の風習がある。子供が十三歳になると、お参りする。伝説によると、弘法の伝説が根拠のようだ。(ここに限らず、茨城百選には弘法伝説が根拠になっていたり、引用しているものが多い。)で、その十三参りのメッカがここ、村松虚空蔵尊。普段から人がいっぱいというわけではないが、大晦日から正月にかけての人ではめちゃくちゃすごく、周辺の道は渋滞に見舞われる。また、普段でも観光客がバスでやってくることがある。
 虚空蔵堂の奥には奥の院と三重の塔があり、近年歩道が整備された。また茨城のお伊勢さんと言われる村松大神宮もある。
 もう一つは、東海十二景で「村松晴嵐/朝日は山気を立ち昇らせ、遙かに白砂青松を見晴らす。背には虚空蔵尊、大神宮の床しい御堂」、水戸八景で 「真砂地に雪の波かと見るまでに塩霧はれて吹く嵐かな」と表されている「村松晴嵐」である。村松は地名、晴嵐は「晴れた日の霞」という意味で、烈公の句から察するに、激しい波と風で巻き上げられる塩や砂の霞のことを指しているらしい。
 村松海岸は松林が保護されており、見事なもの。そこを散策しているときに聞こえる波の音が、あたかも嵐の音のように聞こえることから、最初の頃は、その音を指して「晴嵐」だと思っていた。

【行ってみた感想】 2002.1.1

 元旦早々に行ってみた。周辺は渋滞、車と人でごった返していた。人が多いのは聞いていたけど、これほどとは思わなかった。
 初詣を終えた後、出店で広島風お好み焼きを食って帰った。

【看板説明文】

● 白砂青松・村松の海岸
 この東に広がる村松海岸は白砂青松(はくさせいしょう)の景勝地で、天保4年(1833年)水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による 「村松晴嵐(むらまつせいらん)」の名勝碑を建てさせた。この日は村松晴嵐の碑と呼ばれ、この階段を上り、さらに80m程行ったところにある。また、この上の奥の院のわきには、俳聖芭蕉の「埜(の)を横に 馬引きむけよ 時鳥(ほととぎす)」の句碑と、詩人山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。
 砂浜には、ハマボウフラやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物もみられる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。
 ここから海辺まで約600mである。/東海村、東海村観光協会

● 水戸八景 村松晴嵐
 水戸八景とは水戸藩内の八つの景勝地で、「仙湖暮雪」「青柳夜雨」(水戸市)、「山寺晩鐘」「太田落雁」(常陸太田市)、「岩船夕照」(大洗町)、「広浦秋月」(茨城町)、「村松晴嵐」(東海村)、「水門帰帆」(那珂湊市)のことである。
 天保四年(一八三三)水戸九代藩主徳川斉昭(烈公)が中国の瀟湘(しょうじょう)八景になぞらい藩内の子弟に自然観賞と健脚鍛錬とを図るため、設定されたものである。
 烈公は、この村松の地を「真砂地に 雪の波かと 見るまでに 塩霧はれて 吹く嵐かな」と詠み、「村松晴嵐」と命名された。
 この碑石の題字は烈公自らの書であり、天保五年(一八三四)に建てたものである。/東海村、東海村観光協会

● 天下の魁 水戸のこころ(天保のウォークラリー)
水戸八景
 水戸八景とは、水戸徳川家第九代藩主斉昭公が、天保四年(一八三三年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したものである。
 斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。英明で覇気に富んでいた公であっても、心を煩わすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いを散らすに役だったに相違ない。しかし、八景設定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然観賞と健脚鍛錬を謀ることにあったのである。当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。
 水戸八景みとはっけい(徳川斉昭 作)
  雪時嘗せつじかつしょう仙湖せんこけい
  雨夜更うやさらあそ青柳あおやぎほとり
  山寺やまでら晩鐘幽壑ばんしょうゆうがくひび
  太田おおた落雁芳洲らくがんほうしゅうわた
  花香爛漫岩船かこうらんまんいわふねゆう
  月色玲瓏げっしょくれいろうたり広浦ひろうらあき
  はるかにのぞ村松晴嵐むらまつせいらんあと
  水門みなと帰帆高楼きはんこうろうえい

● 村松大神宮御由緒
 御祭神 天照皇大神 天手男命 萬幡豊秋津姫命
 村松大神宮は伊勢皇大神宮の御分霊を奉祀する神社であり、その創立年代は桓武天皇の御代にすでに奉崇されていたとの由を伝えている。平城天皇の勅号を賜りさらに嵯峨天皇の??に??があった。また後冷泉天皇康平三年に源頼義義家父子が奥州征討のさいに戦勝を祈って社殿の造営寄進があり、古来より東国の名神霊社として?まわれ、その神領は数百町にも及び現在もなおゆかりの地を多く存している。「村松」「阿漕」などの地名は即ち当宮の勢洲奉遷によって起った名称である。
 しかしながら時の流れは止むことなしに中世時運の変遷によりその神域に異動が生じ神宮寺(中世仏教渡来し全国諸大社にその?布のために寺院を??建立して神宮寺となした。即ち日高寺と称し虚空蔵を安置し当宮の神宮寺とした)の建設をみるに至った。そして次第に神仏習合の弊風が次第に移り変わり祭祀の?乱が生じ、かつ戦乱のために社殿は兵火を被り神領を侵掠され、ついにその宗元を逸し奉祀祭神の変更を余儀なくされたが、徳川幕府の覇業成に及んで朱印地当高三十三石一斗九升、並に神地三十余町の寄進があった。しかしなお末に祭祀の?乱変革をなげかれ有司に命じて新たに神殿を造営して元禄九年改めて伊勢皇大神宮の御分霊を奉遷され天照皇大神宮と奉称し多数の神宝、神器を奉納されて参拝された。これより以後は祭典に水戸藩主の参?であ?尊崇はなはだ篤く他とは異なっていた。
 御社殿・神明造?にして、その簡素荘厳なる構えはいよいよ神域の尊さを覚えさせるものである。
〔みう注:「?」は判別困難〕

【備考】

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