No. 41 国王神社

こくおうじんじゃ

一言メモ 悲劇のヒーロー平将門を祀る
市 町 村 板東市
東  経 139.53.34.8
北  緯

36.03.32.6


 詳しい地図↓

 
   

最終更新日:2002.4.14.

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拝殿・本殿


参道


拝殿の中
(右垂れ幕は「慶祝皇孫殿下御誕生」で、
その右側には将門神像の写真)

【ここの概要(歴史、自然など)】

 平将門については、高校の日本史の授業でじっくりとやったので、ここでその内容を詳しく述べてみたい。(ノートが見つからなかったので、固有名詞は省略(^_^;))

 平安の中期、貴族社会は崩壊を始めていて、地方豪族には腐敗していたものが少なくなかった。この地方を治めていた貞盛も例外でなく、地元の人々は反感を高め、ついにその意向を受け、平将門(もともとこの地方を治める一族の血統だった)が蜂起した。
 これに勝利した将門は相手から謀反人と訴えられるが、正当な血統と巨大な武力を背景として朝廷は将門を無罪とする。これに納得のいかない貞盛は抗戦を続ける。
 一方で勝利を続ける将門の下に現状に不平をもつ武家が集まる。彼らの期待を集め、戦いは連戦連勝。ついには関東一円を平定した。
 これだけであったら朝廷も将門の偉業を追認するにとどめていたかもしれないが、将門はここで自らを国王と自称した。これは地元の民にも疑問を持たせることとなった。
  つまり、これまでは地元の人を助けるための戦いだと思っていたが、別の地域を攻めるための戦いが増えていた上、国王と自称することは腐敗している豪族と同じになるのではないだろうか、と考えることになった。
 また、一方で朝廷も国王自称を無視できなかった。反将門の軍勢に協力をすることになり、その知らせが抵抗を盛り返すことになった。これにくわえ、地元民の人望の低下、その上、田植えの時期に戦いが重なることになったので、将門は十分な軍勢を集めることが出来なくなった。
 2月、軍勢が不足したまま戦いに突入していたが、将門は敵におびき出されてしまい、敵の矢に倒れた。

 この戦いは、武家の力を増強させることになったとともに、朝廷にとっては地方支配の方法を考えさせることとなった。その後、源平の時代につながっていくことになる。

 国王神社は、972(天禄3)年、三女の如蔵尼が父の陣没した場所に創建したといわれる。現在の本殿は1683年のもの。

【行ってみた感想】 2001.12

 幹線道路のすぐそばにあるので、見逃すということはなかったが、看板は神社のすぐそばにしかないので、近くに行くまではどこかと探すことになる。
 ここもまた地味な所。神域などもそれほど広くはないが、なかなか雰囲気のあるいい神社だと思う。茅葺きの拝殿も珍しい。
 余談だが、毎年11月頃、板東市では将門まつりが催される。

【看板説明文】

● (武家時代文化ライン) 国王神社
 祭神は平将門である。 将門は平安時代の中期、この地王を本拠として関東一円と平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
 その後長い間叛臣の汚名をきせされたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。
 本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている。/岩井市

【備考】

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