【ここの概要(歴史、自然など)】
岡倉天心というのは、明治時代に日本美術の復興・保存に励み、日本文化を広く海外に紹介し、自らも創作活動を行ったという、日本美術史上有名な人らしい。親の教育方針で英語を子供の頃からたたき込まれ、小さい頃は漢字よりも英語の方が強かったという時期もあったとのこと。美術史にはとんと疎いので、本の受け売りですが。
その天心が、良く過ごしていたのがこの五浦海岸。文字通り、5つの浦から構成されている一帯をこう呼ぶ。
グニャグニャと入り組んだ荒々しい海岸で、六角堂からはいい感じで海を見渡すことができる。その六角堂とは、天心が思索にふける(考え事をする(^_^;))ために自分で設計したもので、文字通りの六角形。畳の形も変わっていておもしろい。
海岸には降りることができ、五浦岬公園からは五浦海岸を遠望できる。
【行ってみた感想】 2002.4
六角堂の付近を中心に少し散策できる程度の時間をとっていたので、いい写真を撮ることができた。この角度は、ポスターなどにも使われているもので、五浦海岸全体を見渡すにはいいところ。また、この写真の右側をはずれた向こう側には福島県まで見渡すことができる。
六角堂に行くには、岡倉天心の墓の道の反対側に、 茨城大学五浦美術文化研究所があり、そこに入る必要がある(有料)。六角堂の立っている場所は広くないので、左のような写真を撮影するためには、かなり無理な体勢をとるか、広角レンズでとる必要がある。なお、危ないところに立たないように看板の注意書きがある(^_^;)。六角堂からの眺めはよい。
そのまま中を散策すると、天心記念碑が建っている。「亜細亜は一なり」と刻まれているが、近年根本の方が劣化してきているらしく、補強されている。左の写真は五年前のこもの。
干潮の際には海岸に降りることができる。変な形の岩がたくさんあっておもしろい。
【看板説明文】
● 岡倉天心の墓地
この墓は日本美術院の主宰者岡倉天心の遺骨が、天心の辞世とされている和文の「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ
12万年明日の夜 弔い来ん人を松の影」及びAn Injunction(戒告)と題した英詩にもりこまれた遺志に沿い、天心没年の大正2年(1913)東京都の染井霊園の墓から、近代日本美術黎明の地五浦に分骨、埋葬されたものであり、歴史的・文化的に価値の高い史跡である。
平成元年7月24日 市指定/北茨城市教育委員会
● 五浦海岸の渚と波音
五浦は、五ツの浦が開けていることから、その名が付けられました。
明治39年には岡倉天心が日本美術院の本拠をここに移し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと創作活動を、行いました。
海に突き出た断崖上に見える赤い建物は天心が建てた六角堂であり、彼はここで太平洋を眺め、波の音を聞きながら、思索にふけったと言われております。
六角堂周辺断崖に打ち寄せる波は、時にはやさしく、時にははげしく、その時々の自分の心をあらわしているように聞こえます。
断崖に砕け散る波しぶき、小さな貝を運んでは引いていく波の音、松をわたる風の音、さまざまな自然の音のハーモニーをかもしだすこの地は平成8年度に環境庁より「残したい日本の音風景100選」として認定されました。
又、この地は潮の干満による渚の変化が大へんうつくしいことから、「日本の渚・百選」としても認定を受けたところです。
● 花園花貫県立自然公園案内
ここ五浦は、入江が五つあるところから名付けられ、海岸には、いたるところ断崖絶壁があり、海水の浸食によってできた洞穴が無数に点在します。海中には、様々な形の岩礁が突き出し、本公園のすぐれた景観地になっています。明治39年、日本美術の先覚者岡倉天心は、日本美術院をこの地に移し、日本美術の再興をはかりました。五浦美術研究所には、当時の母屋と天心が思索の場所として自ら設計した六角堂が残っています。
このほか、海岸地域には、二ツ島やイブキ山イブキ樹叢(国指定天然記念物)伊師浜海岸などがあります。
また、本公園の西側は、阿武隈山脈の南端部あたり、花園渓谷、花貫渓谷などの渓谷と山岳の眺望の美しさとともに、山と海が同時に楽しめます。
--自然を愛し、自然の調和をそこなわないようにしよう--
指定 昭和28年3月20日 公園面積 24,826ヘクタール
茨城県・北茨城市
● 黄門の井戸
元禄年間、徳川光圀公が領内巡視のおりこの地訪れた際、喉の渇きをおぼえ、井戸はないかと供のものが捜しまわり、畦の脇に古井戸を発見した。ただし、水は底深く飲むことができず、光国公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出でて難なく飲むことができた。その後、この井戸は「黄門の井戸」と呼ばれ、涼味溢れる水を永く土地の民に与えたといわれている。
北茨城市
【備考】
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