【ここの概要(歴史、自然など)】
看板説明文参照。
【行ってみた感想】 2001.12
常総・古河の地域では最も有名な神社の一つだろう。幹線道路をドライブしていると、よく看板を見かける。曰く「一生に一度の願いをかなえる」
有名な神社だけあって、シーズン以外にも参拝客を見かける。
【看板説明文】
○ 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)
一、祭神 一言主大神(ひとことぬしおおかみ)(別名・事代主神/ことしろぬしかみ)
二、創立 第五十一代平城天皇大同四年(西暦八〇九年)大和の国(奈良県)葛城山の一言主大神を奉斎す。
三、再建 本殿は長禄三年(西暦一四五九年)守谷城主相馬弾正胤広(そうまだんじょうたねひろ)侯(平将門の子孫)の崇信により再建す。拝殿は天文一九年(西暦一五五〇年)兵乱のため未印と楼門を失い慶応三年一般の寄進により竣工した建物です。
四、例祭 元旦祭 一月元旦 春季祭 四月一三日
例大祭 九月一三日 月嘗祭 毎月一三日
五、御神徳 一言主大神は大国主命(おおくにぬしのみこと)の最愛の長子で、円満の徳を具え、大義名分の道理をわきまえた神であり 御父神をたすけて、国土を経営し国利民福を計って、一般民衆を安ぜられ、よき政治を行い国家守護神となられました。
大神は俗に恵美須神とも称え、御父神大黒神と常に並び、福の神運の神・商売の神・災禍の神・農作の神・縁結の神・平和の神と称え奉り一般大衆の最も崇敬し篤(と)く信仰する所であります。/社務所
○ 一言主神社
一言主神社の社伝によると、大同四年(八〇九)現在の社殿の西方に雷光を放つ筍(たけのこ)が生え、数夜にして三岐(みつまた)の竹に成長した。不思議さに村人が行者に祈祷させたところ、一言主神の託宣があり、この地に社殿を造営し、大和国(奈良県)葛城の一言主神を迎え鎮斎したのが創祀と伝えられている。一言主神社が「三竹山」と称される所以である。
一言主神は、出雲の大国主神の長子で別名事代主神とされ、言行一致の神、一言の願い事でもおろそかにせず願いをかなえる神として篤い信仰を受け、県外からも多くの崇敬者が参拝に訪れる。
本殿は、社殿によると、長禄三年(一四五九)に下総国守谷城主相馬弾正胤広侯(平将門の後裔)の寄進によって再建されたとされている。現存する社殿は、元禄一三年(一七〇〇)正月遷営のときに大修理が行われた。一見社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)風の銅板葺。身舎(もや)外壁の左右に「鳳凰と牡丹」、後側に「鶴と牡丹」の彫物が釘止めされ、脇障子には「三岐の竹」の彫物がはめられている。本殿は、昭和五九年(一九八四)市指定文化財に指定された。
九月一三日の一言主神社秋季例大祭の奉納行事である「葛城流からくり綱火」(指定名「大塚戸の綱火」)は、あやつり人形と仕掛花火とを結合させたもので、空中に張り巡らした綱により花火のついた人形(木偶/でく)を操作し、芝居を演じる民俗芸能である。万治二年(一六五九)大塚戸村向山に三峰神社が開基されるにあたり、村民が花火を奉納したのが始まりとされている。江戸時代より一言主神社の奉納行事として永く伝承されてきたが、終戦直後の昭和二十二年(一九四七)諸般の事情により中断。しかし、昭和四十四年(一九六九)に大塚戸芸能保存会によって復活上演されるようになった。
昭和五十五年(一九八〇)に市指定、平成十一年(一九九九)には県指定無形民俗文化財となった。
水海道市観光協会/水海道市教育委員会
○ 三竹の由来
今より千百五十余年前、今の社殿のあるあたりに奇しき光現れて、雪の中に忽然と筍が生じ、三岐の竹となりました。
冬の時期余りに不思議に怪しいので、村人が俄にお祓いをし、湯立の行事をしてトいますと、
「吾は大和國葛城山に居る一言主大神なり。今東國の万民の災禍を救わんが為に来れるなり。即ち此の三岐の竹を以て永く契とせよ。」
云々と託宣せられました。依って村人これに驚き、此処人跡を禁じ、社殿を造りお祀りしたのです。
其の後も時折三岐の竹が生えるので、三竹山と呼ぶようになったのであります。/社務所
【備考】
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