No. 21 大宝八幡宮

だいほうはちまんぐう

一言メモ 参道に並ぶ3つの鳥居が目を引く。
市 町 村 下妻市
東  経 139.58.29.2
北  緯

36.12.6.0


 詳しい地図↓

 

最終更新日:2002.12.3.

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参道1つめと2つめの鳥居


拝殿


本殿(国指定重要文化財)


さざれ石


「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑

【ここの概要(歴史、自然など)】

 祭神や創建については下記説明文を参照のこと。平将門が戦勝祈願をしたともいわれているようだ。下記特殊神事のほかにも菊祭でも有名だとか。

【行ってみた感想】 2002.8

 車の駐車場は、1つ目と2つ目の鳥居をくぐって、神社前の店の駐車場を使わせてもらう。買い物をするか、飯を食うかはしますけど。
 社内は緑が豊富。君が代でうたっている「さざれ石」もある。最初、そのさざれ石を見たとき、日本で唯一ここにしかないものなのかと考えてしまったが、その後、竜ヶ岩洞(りゅうがしどう:静岡県の鍾乳洞)でもさざれ石を発見。曰く「この石が、国家に歌われている「さざれ石」です。竜ヶ岩洞の石と同じ石である石灰岩の小石が、くっつき合い固り、どんどん成長してできた石です。さざれ石という名は通称で、正式には角礫状石灰岩[かくれきじょうせっかいがん]といいます。」。小さい石が集まってできた変わった岩、という説明が一番しっくりくるのかも。
 結構広く、裏手にはあじさい園もある。

【看板説明文】

● (研究学園都市と民族文化ライン)NO.1X 下妻大宝八幡
 大宝八幡神社の祭神は、誉田別命[ほんだわけのみこと]・足仲彦命[たらしなかひこのみこと]・息長足姫命[おきながたらしひめのみこと]であって、国土鎮護の神として古くから崇拝されてきた。
 社伝によれば、大宝元年(七〇一)に藤原時忠卿が宇佐八幡宮を勧請[かんじょう]したものといわれ、その後、源頼義が奥州征伐のときに祭祀田[さいしでん]を寄進し、また源頼朝が奥州征伐に際して鎌倉八幡宮を勧請したのが摂社[せっしゃ]若宮八幡社と伝えられている。
 徳川時代に将軍から百十五石の朱印地を寄進されている。さらに光格天皇御宸筆[ごしんぴつ]の額と御紋付幕が下賜され、明治時代には北白川宮から幣帛料[へいはくりょう]を賜り県社にも列した。
 本殿は桃山時代に下妻城主多賀谷尊経が再建したもので、現在、国の重要文化財に指定されている。/下妻市

● (抜粋)
特殊神事 タバンカ祭について
 室町時代に境内の賢了院で失火があり、これを鍋ぶたと畳で消し止めた故事が戯曲化され御例祭の前儀にとりいれられたのを起源とする。
 毎年九月十二日と十四日の二夜午后七時より斉行する勇壮な火祭であり、所役は畳二名松明二名鍋ぶた一名の総勢七名にて構成され社伝の八幡太鼓太鼓の響きとあいまって火と畳鍋ぶたが追いつ追われつを繰り返す当社独特の祭である。
 神饌に冬瓜を供する事から別命を冬瓜祭とも呼ばれる。
伝説 一つものについて
 往古大宝沼に住む大白蛇あり。折にふれ近村の娘達を人身御供に強請をし、叶わざる際は大洪水等の禍をもたらした。困惑せし村人達は協議の結果一ッ目の藁人形を作り大白蛇に投じた。
 これに怖れをなした大白蛇は大宝沼より立ち去り消えたという。
 この伝説をもとに九月十五日夜に祭事が行われる。
 当社境内に大白蛇を祀った青龍権現社がある。/社務所

● 国指定文化財 建造物 大宝八幡宮本殿[だいほうはちまんぐうほんでん] 1棟
   指定年月日 昭和39年4月14日
   所在地 下妻市大字大宝667
   管理者 大宝八幡宮
 旧県社。祭神は誉田別命[ほんだわけのみこと](応仁[おうじん]天皇)・足仲彦命[たらしなかつひこのみこと](仲哀[ちゅうあい]天皇)・気長足姫命[おきながたらしひめのみこと](神功[じんこう]皇后)の三柱[みはしら]
 社伝によると、701(大宝[だいほう]1)年、藤原時忠[ふじわらのときただ]が筑紫の宇佐八幡宮を勧請創建したといわれるが、天台宗の古い経文の奥書に『1179(治承[じしょう]3)年巳亥7月22日未時書了 於常陸州下津間八幡宮書了 兼智』とあるから、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかる。
 本殿は1575(天正[てんしょう]3)年焼失、1577(同5)年に下妻城主多賀谷尊経[たかつね]公が再建したことが、本殿回廊の高欄擬宝珠[こうらんぎぼし]によって知られる。三間社流造[さんげんしゃながれづくり]。建ち上がりも高く、柱も太くて、どっしりした重みを見せているが、これに比べて組物は小柄で複雑に組合わされ、桃山時代の地方色の濃い遺構であり、また、派手な装飾は見られず落ち着いた、たたずまいを見せている。(中略)/平成3年3月 下妻市教育委員会

● 国指定文化財 史跡 大宝城跡[だいほうじょうあと]
   指定年月日 昭和9年5月1日
   所在地 下妻市大宝
   管理者 下妻市
 平安時代から南北朝時代にかけてあった城跡。西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三北断崖に面した要害の地であった。
 東西288メートル・南北578メートルで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手[からめて]とした。1341(興国[こうこく]2、暦応[りゃくおう]4)年11月、春日中将顕国[かすがちゅうじょうおきくに]が興良[おきなが]親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。その後、北朝方の猛攻を受けて苦戦を続け、食糧不足と城内不和のため、1343(興国4、康永[こうえい]2)年11月12日落城。城主下妻政泰は討死した。
 城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留どめている。八幡宮裏に1931(昭和6)年5月建立の「贈正四位下妻政泰忠死之地」の碑と、1943(昭和18)年11月の「下妻政泰公碑」が建っている。
平成8年3月 下妻市教育委員会

【備考】

 関連サイト: 下妻市      
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