【ここの概要(歴史、自然など)】
ここは江戸時代、歴代水戸藩主の別荘があったという。その名を「い賓閣」(「い」は常用漢字ではないので書けません)。明治維新の激しい戦いの中で焼失したとか。ここからは那珂湊の街が一望できる。たぶんこの近辺では、一番景観の良い場所だろう。
園内には松が多く植えられており、中でも湊御殿の松は、水戸黄門=光圀がい賓閣の庭に植えたと言うから樹齢300年を越えるが、未だに健在で良い枝振りを見せる。ただ、一言メモの「梅と松の独特の調和」だが、時期が早かったのもあるのだろうが、それ以前に梅があんまりないような印象を受けた。
湊八景「日和山秋月(ひよりやまあきのつき)」昭和58年那珂湊市選定でもある。那珂湊市はいまのひたちなか市の一部。
【行ってみた感想】 2001.2
上の写真を撮影したのは、たしか95年。その次に行ったのは97年でずいぶん昔だが、そのときには高校生カップルがいちゃいちゃしていたなぁ。で、
なんで昔の写真を使ったかというと、今回撮影した分は、芝が枯れていて寂れた感じが増幅されてしまうから。
今回行ってみると、南側の階段というか通路が新築(それとも改築?)されていた。ここからは、下に走る道がよく見える。
【看板説明文】
● 那珂湊市指定天然記念物 湊御殿の松
昭和四十六年九月二十一日指定 那珂湊市中央一丁目六五二二−一
当公園の十二株の黒松は、元禄十一年(一六九八)、水戸徳川家二代藩主光圀が、い賓閣の竣工に際し、須磨明石より取り寄せ、植えたものといわれている。
樹齢三百年近くの見事な枝振りの老松で、元治甲子の乱(天狗・諸生の戦い、一八六四)の兵火にも難を免れて、数個の庭石とともに焼け残ったものである。
往時は代々の藩主が当地を訪れ、松の間に、はるか洋上の月を見ながら、酒宴や詩歌の会が催されたという。
特に九代藩主斉昭は、「反射炉」「水車場」の建設「水門の帰帆」「観濤所」の建碑等、那珂湊と深い関わりを持ち、たびたび訪れている。
明治三十年、当地を湊公園として開園し、以来、松の公園として市民に親しまれている。
県内で名木といわれた松が少なくなった今、当公園の松は、樹形、風格に優れ、歴史的にも貴重である。
昭和六十三年三月 那珂湊市教育委員会文化財保護審議会
● みなとの散歩道
い賓閣跡
水戸藩第2代藩主徳川光圀の命により元禄11年(1698)に建設された水戸藩別荘邸。歴代藩主も度々訪れ宴が催された。建坪300坪以上、28部屋あった。幕末元治元年(1864)の争乱で焼失した。
湊御殿の松
水戸藩別荘邸い賓閣の庭に光圀公により須磨明石(兵庫県明石市)から取り寄せ植えられた黒松。樹齢300年以上を経た現在でも12株が残る。県内有数の巨木老松である。
公園面積 28,992m2
所 在 地 ひたちなか市湊中央1丁目1番
経 緯 昭和30年 「い賓閣」跡地を「湊公園」として開設
昭和42年 都市計画決定(建告第4498号)
昭和43年 事業認可(建告第3151号)
昭和45年 公園整備
昭和47年 供用開始
昭和49年 公園再整備
● 天下の魁 水戸のこころ(天保のウォークラリー)
水戸八景
水戸八景とは、水戸徳川家第九代藩主斉昭公が、天保四年(一八三三年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したものである。
斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。英明で覇気に富んでいた公であっても、心を煩わすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いを散らすに役だったに相違ない。しかし、八景設定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然観賞と健脚鍛錬を謀ることにあったのである。当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。
水戸八景(徳川斉昭
作)
雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩船の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遙かに望む村松晴嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず
【備考】
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