No. 15 中館観音寺と勤行川

なかだてかんのんじとごんぎょうがわ

一言メモ 長寿祈願の菩薩像が信仰を集める
市 町 村 筑西市
東  経 139.58.45.6
北  緯

36.19.48.0


 詳しい地図↓

 
   

最終更新日:2003.3.3.

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中館観音参道


本堂


観音堂


緑地公園


桜並木と筑波山

【ここの概要(歴史、自然など)】

 観音寺は、1300年前というから、西暦700年の頃、法輪独守によって開基された。天台宗のお寺。観音堂は寛永年間に建てられたものらしい。
 観音堂のそばには伊佐城跡がある。これは、もともとは伊達政宗の先祖に当たる伊達朝宗が建てたもので、南北朝時代には、奥州から伊達行朝がここにきて、南朝方についたという。
 観音寺からの眺めは結構良い。筑波山も一望できる。
 観音寺の東を流れるのは五行川(ごぎょうがわ)である。この五行川は南へ流れ、小貝川と合流する。勤行川はどこに?と思って調べてみると、どうも昔は勤行川と称していたらしいと判明。

【行ってみた感想】 2003.1

 ここは、五行川沿いで国道50号よりも北側にあるということ以外に、「ここ!」という目印がないので、わかりにくい。現在、国道50号の北側に50号バイパスが工事中だが、そこから河原に出てしばらく探し回ってしまった。実際には、そこからさらに北に行ったところにある。
 五行川西岸に駐車場があり、そこから階段を上ったところに観音寺がある。
 河原には勤行川緑地公園があり、子供の遊具が長く分布していて、のどかな雰囲気を醸し出している。
 対岸の堤防上には桜が植えられているので、桜の時期にはきれいかも。サイクリングコースもあるようだ。

【看板説明文】

● 中館観音延命水の由来
 中館観音寺は施無畏山延命院せむいざんえんめいいんと号し、本尊を国の重要文化財に指定されている延命観世音菩薩えんめいかんぜおんぼさつの木像であるが、この本尊の「延命」の由来については「中館観音寺縁起」によれば、今から千三百余年前、用明天皇のときりょう(中国)の帰化人である法輪独守居士ほうりんどくしゅこじが、仏像を背負って有縁の地を求め、各所を遍歴していたが筑波連峰を一望に、清流の調べ豊かな中館の台地に安置したことにはじまる。
 当時この地方に悪疫が流行し死者が続出していた。そこで独守居士が、山東の石上において悪疫退散の祈願を行なうと、不思議にも清泉が怫然として沸き出で、この水を飲むものはたちまち悪疫が治ったといわれる。
 その後孝徳天皇の時にも再びあらたかな霊験があり天皇の叡感えいかんにより「延命」という称を賜ったという。
  平成五年三月三十一日/下館市

● 下館藩主石川総管の墓
 石川氏は初代総茂ふさしげが享保十七年(一七三二)三月伊勢国河曲かわの神戸かんべ(三重県鈴鹿市)から二万石をもって下館に移封されてから明治維新に至るまで一三七年間、九代にわたって下館藩主であった。石川氏は総茂から八代総貨ふさとみに至るまで、江戸下谷の大久保寺を葬地としている。下館に葬られているのは最後の藩主総管ふさかねのみである。
 総管は九代藩主ではじめ重之助と称し、天保十二年(一八四一)八月江戸で生まれた。嘉永二年(一八四九)十二月父総貨の遺領を継いで藩主となり雁間詰を命ぜられ、安政二年(一八五五)十二月従五位下若狭守に任ぜられた。慶応二年(一八六六)六月講武所奉行、同年八月若年寄兼陸軍奉行となり、翌年正月陸軍副総裁に累進した。慶応四年(一八六八)二月病のため辞任し、明治元年(一八六八)三月下館城に帰った。
 明治二年(一八六九)六月版籍を奉還し下館藩知事となったが、翌七月職を辞し子爵に列せられる。明治一五年(一八八二)より旧領地の下館屋敷(現在の本城町)に隠せいし、明治三十二年(一八九九)六月二十三日東京芝愛宕下の屋敷で没した。ときに享年五十九歳、戒名を顕光院殿大教正総管道照大居士と称し中館観音寺に葬られた。
  平成五年三月三十一日/下館市

● 伊達宮内大輔行朝公塔
 延元三年(一三三六)足利尊氏は武家政治の再興をめざし、京にあって北朝を確立して征夷大将軍となり、後醍醐天皇は吉野に追われ南北朝の争乱が起こった。
 興国四年(一三四三)奥州伊達郡赤館(福島県)にあった伊達行朝は、一族の旧地である伊佐城(下館市中舘)に入り南朝に組した。
 行朝は北畠親房をたすけ、関城、大宝城と相呼応し、尊氏の武将高師冬の軍と戦い、孤軍よく死守したがついに陥落し北朝方に降った後、行朝の供養塔が観音寺境内に建立された。
 碑面は摩滅しているが、表に「延命院殿念海圓如大居士尊儀」側面には「貞和四戌子歳五月九日寂常州真壁郡伊佐荘当中村城主伊達宮内大輔行朝公塔」と刻まれている。いずれにも墓とは刻まれていないことから考え、供養塔ではないかと推定される。
  平成五年三月三十一日/下館市

【備考】

 関連サイト: 筑西市      
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