【ここの概要(歴史、自然など)】
偕楽園は日本三庭園の一つ。(他は、金沢の兼六園、岡山の後楽園)ここから見える千波湖は、水戸八景の「僊湖暮雪」。
烈公の名で知られる徳川斉昭が1842年(天保13年)に造成した。藩主だけではなく、民と偕(とも)に楽しむためだと言うことで、偕楽園。園内には3000本の梅が植えられていて、春は見頃。実はこの梅、見るためと言うこともあったのだろうが、当初は軍用の梅をとるために植えられていたそうで、最初は10000万本も植えられていたとか。つまり、現在は昔の1/3以下の規模。ちなみに、園内は梅だけではなく、竹林や萩も植えられている。
現在、二月末から三月にかけて、梅祭りというのが催されている。この時期は、近所の駐車場は有料になり、JR偕楽園臨時駅ができる。週末は、この近辺の渋滞はひどいもの。それだけ偕楽園は観光客や地元の人でごった返す。梅祭りには、昔、梅娘というのが選ばれていたが、近年、梅大使と呼ばれるようになった。というのも、改正男女雇用機会均等法が試行され、「娘」だけだと法律違反のおそれがあるとかないとか。なので、男性も応募することが可能なはず。
我こそはと思う方は、挑戦してみては。
千波湖は人造湖といわれる。これは江戸の時代にはもっと大きく、水戸城近辺までは広がっていたようだ。1921年(大正10年)〜1932年(昭和7年)の干拓事業により1/3の大きさにしたとか。元々あったのを小さくしても人造湖なんでしょうか。
千波湖の周囲と櫻川には、多くの桜が植えられており、シーズンにはきっと綺麗なことでしょう。
【行ってみた感想】 2003.3
偕楽園の他の日本三庭園、兼六園、後楽園ともに制覇した。一つの「園」としてだと、兼六園や後楽園よりも小さく感じるが、千波湖とその周辺を含めると数倍広いということになる。実際、千波湖から西側には広く芝生や梅がある。
それはともあれ、水戸八景の僊湖暮雪は、例年一回程度チャンスがあるが、行きそびれてしまっている。まあ、雪が積もると、そこに行くまでが大変になるからなるねえ。
2001年の梅祭には、午後遅くに行ったので、一回りして出店に行くともう閉まっていて哀しい思いをした。行ったときには五分咲きで、ニュースで見頃だと紹介したので行ってみたが、少し期待はずれだった。好文亭3階の楽寿楼から見る園の風景が絶品という。
2002年は行かず。
2003年は、花粉症のため躊躇していたが、3月末、梅祭が終わりかけの頃にいった。2001年は3月頭で開花はじめの頃だったが、それよりも多くの梅が咲いていた。梅の時期も終わりつつあるようで、強い風が吹くと花びらが吹雪のように舞っていた。今回は、ちゃんと好文亭に入った。大人190円なので、気張ることはない。ただ、人が多く、追い立てられるように見学したので、これはシーズンオフの方がよいのかも。
【看板説明文】
● 偕楽園
偕楽園は「民と偕に楽しむ」遊園として水戸第九代藩主徳川斉昭 烈公 寛政十二年(一八〇〇)〜万延元年(一八六〇)が自ら造園計画の構想を練り創設したものです。特に好文亭については、烈公が自らその位置を定めたといわれており、天保十二年(一八四一)から造園工事を行い、翌十三年に本園・桜山及び丸山が開園されました。
当時の本園には梅を中心に竹・霧島つつじ、宮城野萩などを、飛び地になっている桜山と丸山には桜を植え、周辺の湖水(主に千波湖)と田園風景を採り入れ自然との調和をはかり四季の風情や明暗に富んだ趣のある造りでその規模は広大なものでありました。
明治六年(一八七三)常磐神社(祭神第二代藩主徳川光圀(義公)と烈公)の建立に伴い、その敷地として梅林の一部を割愛したため規模が縮小され、現在に至っています。
大正十一年(一九二二)には国の史跡名勝の指定を受け「常磐公園」とも称し、日本三公園の一つに数えられており、春には約百種三千本の梅の香りが満ちあふれます。
偕楽園の面積
全体 一五六.〇〇八 平方メートル
本園 一二七.九九五 平方メートル
桜山 二五.九一五 平方メートル
丸山 二.〇九八 平方メートル
茨城県
● 好文亭
好文亭は、水戸九代の藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌管弦の催しなどをして、家中の人々ともに心身の休養をはかるために天保十三年(一,八四二年)に建てたものです。
好文というのは梅の意味であって、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった。」という中国の故事にもとづいて名付けられました。
建物は、好文亭(楽寿楼、藩主の間、広縁、何ろう庵など)と真御殿(松の間、梅の間、竹の間など九室)の二つに分かれていて、太鼓橋廊下で連絡してあり総面積は二三三,三八坪(七七〇.一五m2)あります。
現在の建物は戦災で焼失しましたものを、昭和三十年から三カ年を要して昭和三十三年に元の姿に再建したものです。
観覧時間 午前九時〜午後四時/茨城県偕楽園事務所
● 天下の魁 水戸のこころ(天保のウォークラリー)
水戸八景
水戸八景とは、水戸徳川家第九代藩主斉昭公が、天保四年(一八三三年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したものである。
斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。英明で覇気に富んでいた公であっても、心を煩わすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いを散らすに役だったに相違ない。しかし、八景設定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然観賞と健脚鍛錬を謀ることにあったのである。当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。
水戸八景(徳川斉昭
作)
雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩船の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遙かに望む村松晴嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず
【備考】
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