チェーン(自転車・かけら)

 チリン、と後ろでベルの音がした。
 自転車を漕ぐ足はそのままに、望月遥奈は後ろをふりかえる。にこにこと笑う想像通りの顔があるのを確認して、自転車を少し車道側に寄せた。
「おっはよ」
「はよ」
 空いたスペースに進んできた自転車の持ち主は、いつもと同じだ。

 今泉久生。遥奈の向かいの家に住んでいる、いわゆる幼馴染。
 けれど、漫画の中みたいにずっと同じ学校の腐れ縁というわけではない。
 小、中学校と久生は公立の学校に、遥奈は今の高校の附属学校へ通った。だから、同じ学校に通うのは実に9年ぶりになる。
 別の小学校になったからといって、2人の関係は希薄になることはなかったし、家に帰った後は一緒に遊ぶこともあった。中学生になってからは、お互いの部屋で一緒に勉強をすることも増え、毎日とはいかなくても、会わない日が3日続くことはほとんどなかった。違う環境で生活していたことで、仲良くしてもクラスメイトにからかわれることがなかったのも、友好な関係を築けた理由かもしれない。
 そして、中学3年になると久生は遥奈の学校を受験した。この辺りでは、遥奈の学校は一応名門といわれる学校で、第一希望にしても別におかしいことではない。
 遥奈もそう思っている。だけど、心のどこかで、自分と同じ学校を選んでくれたのではないか、と期待したのも事実だ。
 しかし、その真実を訊ねる機会を逃しているうちに、久生の合格が決まり、同じ高校に入学することになった。
 そして、自分が期待したことは、全くの間違いだったことに気づいたのだ。

「今日、早くねえ?」
「そう?」
 中学まではバスで通っていた距離も、高校に入ってからは自転車で通うようになっていた。久生が入学してこなければ、バスのままだったかもしれないけど、遥奈は自転車が結構好きだった。
 風をきる感覚は、なかなかいい。
「遥奈のチャリの音が聞こえて、慌てて出てきたから、忘れものあるかもしれねえ」
「別に後から来ればいいじゃない」
「だってさ、せっかくだから遥奈と一緒に行きたいし、学校」
 慣れてない人間が聞けば、まるで告白のような言葉にも、遥奈はため息をつくだけだ。
 久生の悪い癖。
 恋愛感情を持っていない相手にも、さらりとこういうことを言う。
 本人に悪気がないのはわかっている。それどころか、意識していないこともわかっている。けれど、世の中わかってくれる人ばかりじゃないのだ。
 高校に入って、久生の恋愛沙汰に巻き込まれた数は、もう憶えていない。
 いや、高校2年になって、の間違いだ。
 1年生の時は、附属中からの内部組と受験からの外部組でクラスが違い、久生のトラブルの話は遥奈のところまで入ってこなかった。
 遥奈と久生が幼馴染ということも、そのせいか伝わらなかったのだ。
 ただし、去年だけ。
 今年に入って、同じクラスになった久生は、遥奈の近辺で、同級生だったり、上級生だったり、他校生だったり、下級生などを相手に、その時々の、いろいろなシチュエーションで、さまざまなトラブルを起こしてくれた。
 それを仲裁したり、治めたり、相手から罵倒されたり、なぜか宥めたりする役割が、当たり前のように遥奈の仕事となって。
 いい加減やめたいなんて思いながらも、解決することをやめられないのは、ある事実のせいだろう。
 それも、ため息の原因だ。

「うわあった」
 隣で声がして久生の方をみると、自転車のペダルが空回りしていた。
「大丈夫?」
 自転車を止めてそう訊ねる。同じように自転車を止め、空回りするペダルを手で回していた久生は、遥奈を見上げた。
「チェーン外れた」
(いや、涙浮かべられても)
 捨てられた子犬のような瞳から顔を背けると、ペダルに足をかける。
「じゃ、頑張って」
 ここから学校まで自転車で15分。
 ここでチェーンをはめ直すのを見ている時間くらいはあるが、そんなものを待っている義理などはない。だいたい、登校時間が遅くなると気持ちが悪いし、一日中もやもやした気持ちで過ごさなければいけなくなる。
 自分のせいではなく他人のせいで、そんな憂鬱な日を過ごすのは嫌だ。
「あ、待てよ」
 制服をつかまれて、漕ごうとした身体が傾いた。慌てて足をついて、なんとか転ぶことを免れる。
「危ないでしょ。倒れたら、どうするのよ」
「そんなこと言ったって、遥奈が行こうとするからさ。少し待てよ。今、直すから」
「い・や。また学校でね」
 制服をつかんでいる手を外して、改めて自転車のペダルに足をのせた。ふと思って、久生の顔を見ると、ふてくされている。
「ひでぇ」
 ぼそっとつぶやかれた声を無視し、遥奈は今度こそ走り出す。3分のロスは、頑張って漕げばなんとかなるだろう。
 ガチャガチャと後ろで自転車を動かす音がする。
 久生が自転車を歩道から邪魔にならない場所へ移動させているのだろう。それくらいの知恵はあるのか、と見直してみる。
(昔は、お兄ちゃんみたいに思ってた時期もあったけどなぁ)
 どうしてこうなってしまったのか。少なくとも高校に入るまでは、頼りにしていたことが多かった気がする。容姿のせいもあってだ。
 久生は昔から背が高く、よく目立っていた。恋愛沙汰のトラブルが起こるのは、甘い言葉だけではなく、久生の容姿も関係しているのだと思う。
 逆に遥奈は、今でこそ普通並みだが、小中と背が低かった。だからよく兄妹と勘違いされて、2人で笑ったものだ。
 そんなことを思っていたから、気づかなかった。
「乗せろ」
 後ろが重くなったと思ったら、そんな声が耳元でする。重量のせいか、驚きのせいか、バランスを崩しかけて、ハンドルが左右にぶれた。
「ちょっと!」
 車体の安定は取り戻せずに、遥奈は地面に足をつける。トン、と音がして、後ろに乗り込んだ久生も地面に降りた。
「なんだよ、ちゃんと行けよ」
「自分ので行きなさいよ」
「だって、チェーン壊れてるし」
「直しなさい」
「めんどいから帰りにな」
「あのね、私は乗せないわよ」
「じゃ、俺が乗せてやる」
 そんなつもりはまったくなかったのに、ハンドルを奪われ、サドルから追われ、代わりに久生が自転車に座った。後ろを、親指で示す。乗れ、ということだろう。
「……たく、なんで」
 文句を言いながらも、遥奈は後ろに乗り込んだ。それを確認して久生が声をかける。
「いくぞ」
 走り始めは怖くて、肩に置いた手に思わず力が入った。数メートル走って安定すると、ようやく口を開くことができる。しかし、それは久生も同じだったらしい。
「校門100メートル前までだからね」
「帰りもよろしくな」
 同時に出た言葉にお互い顔をしかめ、それでも久生はペダルを漕ぎ、遥奈は肩をつかむ。
「わかったよ」
「しょうがないわね」
 口元でつぶやいた言葉は、もしかしたら相手に聞こえなかったかもしれない。だけど、わかってくれているだろう。それくらいには、同じ時間を過ごしている。
 学校到着まで、あと12分。
 できることなら友人が見ていませんように、と遥奈は心の中で呟いた。

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