〜漣〜

―第九章―

「・・・男には気をつけなさい」

ポカポカと暖かい昼下がりの陽射しを窓際の席で受け、夕璃が軽くうとうととしていた時に、その言葉はふってきた。
半分以上寝ぼけまなこで振りかえった夕璃の目に映ったのは、ビシッと指先を夕璃につきつけたまま真剣な顔をした紗江だった。

「はぃっ!?」

あまりの事に、ほとんどまともな対応ができなかった。生返事を返すのがやっとだ。
次第に頭の中にかかっていた靄が霧散していくに連れて、紗江が何を言っているのかが音としてではなく、言葉として夕璃の頭に入ってくる。

「何よ、それ?」

怪訝そうな表情で問い返す夕璃。いつものただの冗談だろう、と夕璃はたかをくくっていた。
が、紗江の真剣な表情は変わらない。
『なーんてね♪』とかいいながら、じゃれついてくる紗江を想像していただけに、夕璃はあっけにとられるばかりだった。

「男には気をつけなさい、って言ったのよ」

紗江が珍しく声をひそめる。しかもその口調は、彼女いわくの『特ダネ』をつかんだ時とは微妙に違っていた。

「・・・あんた、この前の休みにでかけたんだって?」

「えっ?・・・うん、でかけたけど・・・それが?」

この前、というのは、きっと尚哉と遊園地に行った事だろう。何かいけなかったんだろうか?
紗江は腕組みをし、しばらく考えこむ風だった。
夕璃はいまだに少しだけぼんやりする頭を軽く振ってはっきりさせると、紗江が何やら答えを出すまでじっと待っていた。

「こんな事・・・話して不安にさせるのもなんなんだけど・・・」

やっと、といった感じで紗江がぽつぽつと語り始める。

「最近、自殺が多いのは知ってるわよね?」

「えっ・・・うん」

「その中でも、飛び降りが起こったかなりの現場で、同一人物じゃないかと思われる男が目撃されてるらしいのよ・・・ただ、目撃してる人はたいてい『チラッと人影を見た』とか『男らしき人が屋上に立ってた気がする』とか言うだけで、はっきりした人物像を確定できてないのが現状らしいの。でも、警察はただ単なる自殺ではなくて、その線・・・つまり他殺ね・・・でも捜査を始めたらしいわ」

「・・・で、『男に気を付けろ』って?その現場に現れてるらしい男が、例のストーカーかもしれないって」

夕璃は、はぁっ、と軽くため息をついた。

「それだけじゃ、なんの対策もたてられないじゃない・・・」

どう気をつけろっていうのよ、と口の中で不満そうに付け足してから、

「大体それが、先輩と出かけた事と何か関係がある訳?先輩が一緒なんだから、大丈夫じゃない」

最初は自分の立場も忘れ、不用意に危険の潜む人ゴミに出かけた事を注意されているのだと思っていた。
だが少しずつだが自分が尚哉と出かけた事自体を非難されている気がしてきて、夕璃は少しだけ語気を荒げた。
一方の紗江は、何やら言いにくそうにしていたが、意を決したように口を開いた。

「・・・あんたと私の仲だし、この際遠回しじゃなくてはっきり言わせてもらうわ。あんた、あの先輩と別れた方がいいよ」

「なっ・・・」

絶句するしかなかった。
確かに、今紗江の話した事件の人物が例の人影だという可能性も捨てきれない。そういう意味では「男に注意する」という紗江の忠告は当然といえば当然だ。
が、その前置きと、尚哉と別れた方がいいという話に接点が見出せない。
まさか事件の犯人が尚哉だとでも言うのだろうか?
そんなバカな話はない。尚哉に送ってもらった時に数回、例の人影の気配を感じた事がある。少なくとも夕璃の件に関しては、尚哉は何も関係がないはずだ。

「なんで急にそんな事言われなきゃいけないのっ!?先輩はあんなにも私のためにいろいろしてくれてるのに!!何か不都合な事でもある訳!?」

冷静になって考えをまとめる前に、夕璃は怒鳴っていた。
頭に血が上った、といってもいい。
放課後の日溜りでまどろんでいた幸せな気分が台無しだった。

「・・・帰るっ!!」

夕璃は乱暴に自分のカバンをひっつかむと、怒気をはらんだ足音だけを残して足早に教室から去っていく。
一人取り残された紗江は、後を追う事も出来ずに夕璃の消えた出入り口を呆然と見ているしかできなかった。
それは紗江が久しぶりに見せた、悲しそうな、そしてさみしそうな表情だった。

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