〜漣〜

―第八章―

そこは奇妙な空間だった。
企画立案した人間が風変わりだったのか、ただ単に園主の酔狂で建てられたものなのかはわからない。
入った客は、突然広がる無限の空間にまず驚かされる。そこが建物の規模と一致しない、まるで4次元のような広がりを持っているからだ。
しかし、次の瞬間にはそれが鏡による無限の反射によるものだとわかって安心し、「ミラーハウス」と「ホラーハウス」をかけたものなのか、と失笑する。
だが、客が最初に思うほどにこれは駄洒落めいている訳ではない。
鏡による永遠とも言える空間の中で、そこにあると認識していた壁から何かが飛び出して来たり、逆に無いはずのものが鏡の中の空間に浮かぶというのは、思った以上に人間の精神に混乱と恐怖とを引き起こすものらしい。事実、恐慌におちいりスタッフによって出口に導かれる事になる客というのも決して珍しくはない。
夕璃と尚哉も、そんな典型的な客の1組だった。

「・・・大丈夫かい?」

尚哉が心配そうに夕璃に声をかける。
対する夕璃は返事も出来ずに壁に背をもたれかけさせたまま、胸の動悸を抑えようと荒い息をついていた。

最初はよかった。面白半分で突然壁のなくなる錯覚や、そこから飛び出してくる何かにキャーキャー言いながらもアトラクションを楽しんでいた。
しかしアトラクションも後半に近づくにつれ、最初の頃の華やかな『驚き』とは裏腹に、静かに忍び寄るような『恐怖』へと趣が変化していった。それがいけない。
ふと背後から近寄る気配。だが振りかえるとそこには誰もいない。
目の前の鏡に映る謎の物体。だが振りかえってもやはりそこには何もない。
音もなく忍び寄る恐怖。目に見えぬ、影。
夕璃の頭に、例のストーカーへの不安が鮮明に蘇ってくる。いや、今まで以上にその存在感を増して夕璃に襲い掛かっていた。

今ハ大丈夫。今ハ先輩ガ横ニイル。ダカラ大丈夫。
・・・デモコレカラハ?

そんな考えが振り払っても振り払っても頭の隅にこびりついて離れようとしない。

(そうだ・・・これからの保証なんて、誰にも出来ないんだ・・・)

そう考えてしまうと、今にもストーカーが襲い掛かってきそうな妄想にとりつかれてしまう。
そこの角から。あるいは上から。背後から。
向かい合わせの鏡に映る無限世界の中に閉じ込められた、無限に続く自分の虚像。
そんな混乱した世界を見続けていると、実像と虚像の区別があいまいになっていく。どれが本当の自分自身なのかすら、わからなくなってくる。
その中の10人目の私が襲われるのかもしれない。もしかしたらその一つ先かもしれないし、その更に先の私かもしれない。
妄想は更に加速し、ぐるぐると頭の中で高速回転を始め・・・・・・

「・・・おねえちゃん、だいじょうぶ?」

気が付くと夕璃はベンチに横になっていた。
遠くの空がぼんやりと紅く染まっている。そろそろ閉園時間なのか、人影もまばらだ。

「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

再びかけられる、小さな少女の声。いまだ霞む目の焦点があってくると、そこにいたのは見知らぬ少女だった。
そでのないワンピースを着たおかっぱ頭の女の子が、心配そうに夕璃の顔を見つめている。

「う、うん、ありがとう。大丈夫よ」

軽く頭を振り意識をはっきりとさせると、夕璃は少女に微笑む。多少まだ顔が強張ったが、少女が微笑み返してくれたところを見ると、どうやら笑う事には成功していたらしい。
と、そこで夕璃は少女が一人きりである事に気が付いた。こんな年端もいかない少女が一人で遊園地に来ているとは考えにくい。
迷子だろうか?ふと心配になり、夕璃が口を開きかけた時、少女が夕璃の目の前にその小さな手を差し出した。その手には、小さな包みが一つ乗っている。

「・・・キャンディー。たべると、げんきになるから・・・おにいちゃんが、どうぞって」

渡されるままに夕璃が包みを受け取ると、少女はくるりと背を向けて小走りに走り出した。その先には少女のお兄さんなのだろうか、逆光で顔はよく見えないが夕璃とさほど年齢の変わらなそうな年恰好の人が少女を待っていた。
手をつないで帰っていくその兄妹を眺めながら、どうやら迷子の訳ではなかったようだ、と安心し、同時にすぐ側に人の気配を感じて振りかえると、そこには尚哉がいつになく険しい目をして立っていた。

「せん・・・ぱい?」

初めて見せる厳しい表情にかすかな怯えを感じつつ、夕璃は呼びかけた。
その呼び声で我に返ったのか、尚哉はふっと表情を和ませる。

「あ、あぁ。ごめん。気が付いたのかい?気分は、どう?」

尚哉によると、夕璃はあの後ホラーハウスの中で気を失ってしまったらしく、尚哉にかかえられるようにしてホラーハウスを出て、今までここで寝かされていたという話だった。

「まさかあんな事になるとは思わなかったから・・・本当に悪かった」

夕璃は自分自身、気を失う事になるとは予想だにしえなかったので、頭をさげようとする尚哉を慌てて押し留めた。
しかし不思議な事に、先程までの不安感は今は微塵も残っていない。それどころか、その押し潰されそうにすらなっていたはずの不安があった事すら忘れてしまっていた。
帰り道、尚哉と二人で歩きながら、少女のくれたキャンディーをほおばりつつ、夕璃はそんな事を考えていた。

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