〜漣〜

―二十一章―

夕陽は完全に沈み、あたりはすっかりと暗闇に包まれていた。
夕璃から、少年の表情は見えない。が、少年の方がわずかに震えているのがわかる。
奇妙な沈黙。
夕璃はただ少年の言葉の続きを待っていたし、一方の少年は何かに耐えているように口を真一文字にきゅっと結んで何も語らない。
街灯にも灯が入り、街の灯りが徐々に増え始め暗闇を侵食していく。

ポタリ

何か雫のようなものが落ちる音が夕璃の耳に届いた。

気が付くと少年が震える声を絞り出していた。拳を強く強く握り締めている。そこから何かが滴り落ちている。

「僕は、僕は・・・ただ君を救いたかっただけだったんだ・・・・・・」

「ふざけないでっ!!」

夕璃は我知らず叫んでいた。

「何が助けるよっ!何?神様にでもなったつもりなの?そんなのただの自己満足じゃない!!」

何に腹が立っているのかわからない。理不尽な怒りであると、夕璃自身もわかってはいた。だが、この憤りをとめる事はできそうになかった。

「私は友達を・・・親友を殺したのよ?そんな人間が生きていたってしょうがないじゃない!せめて、死んで詫びようと思ったのに、邪魔しないでっ!!」

と、少年は地面に小さな赤い染みを作り始めていたその拳を思い切り床へと叩きつける。ボグッと鈍い音がした。
はっと夕璃は息を呑んだ。
少年の雰囲気が変わった。先ほどまでの超然とした態度から一転、怒りに全身を打ち震わせている。

「・・・死んで・・・死んだからって・・・どうなるっていうんだ・・・」

少年の声は震えていた。怒り、悲しみ、憎しみ、悔しさ・・・その全てを自らの内に押し留め、搾り出した声。

「君の罪は死んだ事で解決するのか!?それこそ罪の放棄・・・ただの自己満足だ。さっきも言ったように、歴史は繰り返している。君は死ぬ事で、今は開放されるかもしれない。だが、循環する時の流れの中でやがて同じ過ちを起こし、同じ罪の意識にとらわれ、そして再び死んでいく・・・そんな事に君は耐えられるのか?」

2度、3度と叩きつけられる拳。まるで無理矢理怒りの矛先を夕璃から地面へと向けるかのごとく振り下ろされる続ける。
あまりの激しさに夕璃はとめる事すら出来ず、ただその光景に見入っていた。
数分後、夜目にも見て取れるほど赤く染まった拳に、自分が地面に叩きつけられた様子が脳裏に浮かんだ。

石榴が弾けるように飛び散った、鮮やか過ぎる朱。跡形も残らないほど四散した、自分の四肢。地面に激突した瞬間の耐え難い痛みまでが思い浮かぶ・・・そんなものは感じる間もないというのに。
今更ながらに自分のしようとしていた事にぞっとしつつも、それでも夕璃はまだ生きる事に前向きにはなれなかった。

「でも、結局運命の輪の中で全てを忘れて生き続けるしかないんでしょ!?だったら私を助けたって何の意味もないじゃない!貴方の言う事が本当なら、今の苦しみだって、その時には覚えてないんでしょ?」

夕璃はキッと唇を噛み締める。

「・・・それなら、せめて今回だけでも紗江を助けてくれればよかったのよ・・・」

少年がゆらりと立ち上がった。その動作は先程までの激情がうその様に、なんらの感情ものぞかせはしない。

「・・・それは、無理だ」

少年は血に染まった拳を軽く振った。床面に、ピピッと赤黒いラインが生まれる。

「確かに君を助けた・・・助けようとしたのは僕の自己満足かもしれない。そのために、何度となく・・・そう、何度となく君とこうして問答してきた。でも、ずっと助ける事ができなかった。目の前で人が死ぬのを、ただ黙って見ているしかできなかった」

そこで少年は一呼吸置いた。自分の中でも何かを整理するかのように。

「・・・そして、今回はじめて漣が大きなうねりに変わった。それが今のこの状況だ。でも、大きな波がまわりから水を吸い上げるように、この『うねり』は何かを代償に生まれるらしい。それははじめて知った事実だけど・・・それが今回は不幸にも君の友人・・・橘紗江嬢の自殺という形になってしまった」

淡々と語り続ける、何かを悟ったかのような口調。

「彼女の死は今回がはじめてだった。だから、僕にはどうしようもなかったとしか言えない。その件については過失といえなくもないが、僕の責任だ・・・君の論理でいけば、『死んで詫びる』のが筋だろうな」

少年はビルの縁へと歩いていく。死ぬ事を、まるで恐れていないかのように。
そして夕璃とすれ違いざまに、聞こえるか聞こえないか程度の小声でつぶやいた。

「・・・もう一つの・・・もっと重大な罪に関しては、死んでも詫びきれるものじゃないが・・・」

「!?」

夕璃は振り返った。少年の方・・・さっき自分が立っていた場所へ。
少年はすでにビルの縁にたどり着いており、もう半歩も外に踏み出すか、先程のような強いビル風でも吹いてくれば簡単に数十メートル下まで落下できる位置にいた。

「最後に言っておかなきゃならないのはその事だ。君はもう、『刻の輪』を抜け出している。さっき、鮮明に『過去』の風景が見えたろう?それが証拠だ」

「・・・一体、何を言っているの?」

夕璃は少年が言っている事がよくわからずに、いぶかしむ。当然だろう。あまりに話が唐突すぎるし、抽象的すぎた。

「さっき君が言っていた『全てを忘れて生き続ける』事は、もう君にはできない。君の記憶は永遠に途絶える事がないんだ。過去から、現在に至り、そして未来に向けて。再び過去に戻っても、未来の記憶は消えずに残っている・・・デジャヴのような不鮮明な形でなく、もっと鮮明に・・・すべて昨日の事のように・・・そう、『未来』が『昨日』の事のようにね・・・僕が、そうであるように」

「!!」

夕璃は息を呑んだ・・・いや、呑む事すら忘れたように、呼吸が止まっていた。肺は酸素を求めてあえいでいるようだったが、空気が入ってこない。
驚愕に目を大きく見開く。まるで、器官の代わりにそこから酸素を吸収しようというかのごとく。

「僕が一番後悔してるのはその事だ・・・本当に、純粋に君を自殺から救いたかっただけなんだ。目の前に・・・というより、頭上に突然落ちてきた女の子をね。まさか、そのせいで君にまで無間地獄に落とす事になってしまうとは思いもよらなかった・・・人間は、結局神にはなれないんだ」

少年の片足が後ろにさがり・・・宙に浮いた。ほんのわずか、重心をずらせば、もう身体を支えていられないだろう。

「人が目の前で死ぬという事がどういうことか、一度知っておくといい・・・そうすれば、君も少しは僕の気持ちをわかってくれると思う・・・もう僕は疲れたよ・・・紗江さんを助けるのは、君に・・・夕璃さんに任せる」

「助けるって・・・一体私にどうしろっていうの!?紗江はもう死んじゃってるのよ!助けるも何も、どうしようもないじゃない!!」

「・・・今の君にならわかるはずだよ・・・どうすればいいのか・・・何が間違ってたのか・・・・・・」

「ちょっと待っ!!」

ふわり、本当にそういう形容がふさわしい程ゆっくりと少年の身体が宙に舞い・・・そして、夕璃の視界から消えて行った。

「・・・どうしろって言うのよ・・・あのバカ・・・」

ビルの縁にへたり込み、しばし呆然としていたが、やがて下をのぞきみてみると、案の定、下は大変な騒ぎになっていた。
この高さからでは少年は即死であろうが、遠くから救急車のサイレンも近付いてきている。様子を見る限り、幸いにも更なる犠牲者は出なかったようだ。
道路は野次馬でごったがえし、人がこういった事件に貪欲なまでの好奇心を持っている事をはからずも照明していた。

「・・・私の時も、こんなだったのかな・・・」

ぽたり、と身体を支える手の甲に何かが落ちる。
気が付くと、夕璃は泣いていた。なぜだか涙が止まらなかった。
これから死のうとしていた人間にとって、勝手な事を散々言い散らしたあげくに勝手に死んでいった赤の他人の死などなんでもないはずだった。
だが夕璃は、心の中心に、何かぽっかりと穴の空いてしまったような、どうしようもなく空虚な気持ちにいたたまれなくなる。
自分がそうしようと思っていた事など、どうでもよくなっていた。

「・・・目の前で人が死ぬのを止められないって、差し出せば届く距離にいながら止める手を差し伸べられないのって、こんなにもみじめなの・・・?」

自問自答を繰り返す夕璃。だが、もう答えを与えてくれる者はいない。

『他人がいくら口出ししようと、結局最終的に判断をくだすのは君だ。それをどうこうしようなんて、少なくとも僕は考えちゃいない。飛び降りたければいくらでもそうすればいい』

まだ鮮明には思い出せないが、少年はいつも無表情にそう言っていた気がする。
止められるのに、止められない。その事がどれだけ少年の心を切り刻んでいたのか・・・今の夕璃には少しだけ理解できた気がした。

(今の私に出来る事・・・今の私にしか出来ない事・・・)

多分、何かあるのだろう。いや、あるはずだと信じたかった。
あの少年によって救われた、『夕璃』という名の漣が作り出す事のできる、うねりが・・・いや漣でもいい、それがどこかにあると信じたかった。
そして、夕璃は・・・

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