〜漣〜

―終章―

「・・・男には気をつけなさい」

ポカポカと暖かい昼下がりの陽射しを窓際の席で受け、夕璃が軽くうとうととしていた時に、その言葉はふってきた。
半分以上寝ぼけまなこで振りかえった夕璃の目に映ったのは、ビシッと指先を夕璃につきつけたまま真剣な顔をした紗江だった。

「はぃっ!?」

あまりの事に、ほとんどまともな対応ができなかった。生返事を返すのがやっとだ。
次第に頭の中にかかっていた靄が霧散していくに連れて、紗江が何を言っているのかが音としてではなく、言葉として夕璃の頭に入ってくる。

「何よ、それ?」

怪訝そうな表情で問い返す夕璃。
が、いつものただの冗談だろう、とは今回は夕璃は思わなかった。来るべき時が来た、そう感じていた。
やはり紗江の真剣な表情は変わらない。

「男には気をつけなさい、って言ったのよ」

紗江が珍しく声をひそめる。しかもその口調は、彼女いわくの『特ダネ』をつかんだ時とは微妙に違っていた。

「・・・あんた、この前の休みにでかけたんだって?」

「えっ?・・・うん、でかけたけど・・・それが?」

夕璃はできるだけ自然に、それでもとぼけるように答えてみせる。
紗江は腕組みをし、しばらく考えこむ風だった。
夕璃はいまだに少しだけ信じられない頭を軽く振ってはっきりさせると、紗江が出す答えをじっと待っていた。

「こんな事・・・話して不安にさせるのもなんなんだけど・・・」

やっと、といった感じで紗江がぽつぽつと語り始める。

「最近、自殺が多いのは知ってるわよね?」

「えっ・・・うん」

「その中でも、飛び降りが起こったかなりの現場で、同一人物じゃないかと思われる男が目撃されてるらしいのよ・・・ただ、目撃してる人はたいてい『チラッと人影を見た』とか『男らしき人が屋上に立ってた気がする』とか言うだけで、はっきりした人物像を確定できてないのが現状らしいの。でも、警察はただ単なる自殺ではなくて、その線・・・つまり他殺ね・・・でも捜査を始めたらしいわ」

「・・・で、『男に気を付けろ』って?その現場に現れてるらしい男が、例のストーカーかもしれないって」

夕璃は、はぁっ、と軽くため息をついた。

「それだけじゃ、なんの対策もたてられないじゃない・・・」

どう気をつけろっていうのよ、と口の中で付け足してから、

「大体それが、先輩と出かけた事と何か関係がある訳?先輩が一緒なんだから、大丈夫じゃない」

関係があるどころの話ではない。紗江がこんな事を言い出した原因はわかっている。尚哉と出かけたせいだ。
以前の夕璃なら『尚哉が一緒だから大丈夫』と思っていただろう。が、今は違う。『尚哉が一緒だからこそ危ない』のだ。
一方の紗江は、何やら言いにくそうにしていたが、意を決したように口を開いた。

「・・・あんたと私の仲だし、この際ストレートにはっきり言わせてもらうわ。あんた、あの先輩と別れた方がいいよ」

「・・・」

夕璃はしばらく不機嫌そうにうつむいて押し黙っていた。
一方の紗江は強い姿勢を崩さずに、夕璃がどういう判断を下すのかを待っていた。
二人の間にしばらくの沈黙が流れる。昼休みの喧騒が教室内を満たしていたが、二人には届いているかどうかさえ怪しかった。
と、夕璃の肩が小刻みに震え始めた。我慢の限界にきたらしい。
紗江は、突然理不尽な事を言い出した・・・もちろんきちんとした理由こそあるが・・・自分にくる叱責を覚悟して表情を引き締め、身構えた。

「・・・うっ・・・くく・・・ははははっ」

「っ!?」

唐突に笑い始めた夕璃に、紗江があっけにとられたようにぽかんと口を大きく開けたまま固まっていた。

「ははは・・・なんて顔してるの、紗江?いつも私の事『間の抜けた顔してる』なんて言って、そんなんじゃ、紗江の方がよっぽどおかしいよ・・・はははは・・・」

ただひたすらに笑い続ける夕璃。
対する紗江は、しばらく硬直していたかと思うと、みるみるうちに怒りで顔が紅潮していった。

「あんたねぇ・・・人が真面目に話をしているっていうのに・・・」

「うん、いいよ」

「はぃっ!?」

紗江の言葉をさえぎるようにあっさりと言い切った夕璃に、またしても紗江はとぼけた声をあげた。

「・・・何が、いいの?」

「え?紗江が言ったんじゃない。『先輩と別れろ』って。だから、『うん、いいよ』って」

三度紗江はきょとんとした顔になる。それを見て、夕璃は再びくすくすと笑う。
はぁっ、とため息をついて、紗江は夕璃の向かいの席に疲れたように腰を下ろした。

「もういいわ・・・まさかあんたがそんなにあっさりとOKすると思わなかったけどね・・・」

夕璃の机に頬杖をついて、上目遣いにじと目で夕璃をにらむ。

「だって、大事な親友からの忠告でしょ?だったら素直に聞いとかなきゃ」

夕璃の言葉に紗江はほんの少し赤面した。さすがの紗江も、面と向かってそんな事を言われれば照れるらしい。
夕璃はそんな紗江の様子を少しだけにやにやしながらながめていた。と、紗江がそれに気付く。

「・・・夕璃・・・あんた何か隠してるでしょ?」

「・・・うーん、実はねぇ・・・ジャンッ♪」

効果音と共に机の中から夕璃が取り出したものは、革張りの小さな手帳だった。

「あーっ!!私の手帳っ!!」

「最近サエの付き合いが悪いから、またなーんか企んでるんじゃないかと思ってね〜。ほんのちょこーっとだけ、のぞかせてもらっちゃったんだ♪」

「こらっ!!返しなさいっ!!」

慌てて取り返そうとする紗江の手から逃れるように、夕璃は教室中を逃げ回った。

結局考え直してみると、ここが分岐点だった気がする。ここで紗江でなく尚哉を選んだ事で、自分だけでなく紗江すら不幸にしてしまった。
『知っている』という事が、こんなにも辛い事だとは思わなかった。紗江を救わなければいけないという目的がなかったら、途中でまた・・・そして前よりも早く挫けてしまっていたかもしれない。
しかしここから先は夕璃も、あの彼も知らない世界のはずだ。この先には正解も間違いもない。あの少年は自分の変えてしまった世界を『間違いだった』と言っていたが、夕璃にはそうは思えなかった。
先の事はまだわからないが、結果としては夕璃も紗江も救われた。代わりにどこかでまた誰かが犠牲になってしまうのかもしれない。しかし無責任な言い方かもしれないが、それは夕璃にはどうしようもない。
あの少年が言っていた言葉を思い出す。『人間は、結局神にはなれない』、と。どうしようもない事は、どうしようもないのだ。
最終的に夕璃の辿り付いた結論はそこだった。ただ、それは決して諦めからきたものではない。どうしようもない事でも、出来る範囲で少しずつでも変えていければそれでいい。
漣は寄り集まって大きなうねりになる。夕璃に出来るのは、その漣を作る事だけだ。

紗江は相変わらず手帳を取り戻そうと夕璃を追いかけてくる。夕璃は笑いながら、非日常的な位置に否応なく置かれた自分の立場を忘れ、そんな日常的なつかの間の幸せをかみ締めていた。

<了>

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