〜漣〜

―十九章―

この小高い高層ビル群が立ち並ぶ街並みにおいては希有な事に、はるか遠くまで見渡せるビルの屋上にひとつの人影があった。
その人影は危険きわまりない屋上の縁にじっと立ち尽くしている。そのシルエットは、暮れ掛けた夕日が足元に長く伸ばしている影のせいか、奇妙なほど小さく、はかなく見えた。
立春を過ぎたとはいえまだまだ肌寒い夕方の風が下から立ち上り、その人影・・・夕璃のスカートのすそとセーラー服の襟元をばたばたとはためかせる。
夕璃は一度足元を確認するようにのぞきみて、ごくりと喉をならす。
ちっぽけな勇気がくじけそうになるが、やっとの思いでここまで来たのだから、せっかくなんだから、と強引に自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟いた。

「また、くじけるのかい?」

突然背中から声をかけられ、夕璃はぎょっとした。あわてて背後を振り返る。
今まで誰もいなかったはずのそこには、何時の間にか一人の少年がいた。
年の頃は夕璃と同じくらいだろうか。少ししわのよったYシャツとジーパンというラフなスタイルでじっと少女を見つめるこの少年に、夕璃はまるで見覚えがなかった。

「やあ、また逢ったね。そう・・・かれこれ18年ぶりくらいかな?」

少年は旧知の知り合いに会った時の様な気軽さで夕璃に話し掛けていた。
しかし一方の夕璃の方は、いくら記憶を探っても少年の事は一向に思い出せない。何より、夕璃は今年16になったばかりだ。
この少年が言ってる事が事実だとすれば、夕璃は生まれたばかりの頃、いやそれ以前にまだ赤ん坊だったろうこの少年と出会っている事になる。そんなバカな話はない。
まったく、辻褄のあわない事だらけだった。先ほどの混乱が再発する。

「・・・あなた、誰?」

当然の質問を夕璃は少年にたずねる。
が、夕璃の頭の中に何か引っかかるものがあった。どこかで同じような質問を、自分はした事がある気がする。
そして、その後どうなるのかも、夕璃は知っている気がした。
ふと、身体が本能的に屋上の手すりをつかむ。強く、もう2度と放さないほど力強く。
と、先ほどとは比べ物にならない程のビル風が吹き上げてきた。そう、人一人くらいなら平気で飛ばされそうになるほどの突風。
バタバタとうるさいほどにはためく剥がれかけた看板。
激しく吹き荒れる突風の轟音が鳴り響いた後、屋上には少年と・・・そして夕璃がいた。目に見えるほどに蒼褪め、関節が白くなるほどに手すりを握り締めている。
何が一体そうさせるのかわからないが、荒い呼吸を繰り返し、激しい動機に胸が苦しくなる。背中はぐっしょりと冷や汗に濡れていた。
膝が折れ、そのままビルの縁へと座り込む。が、手だけは決して放さない。
何かを思い出しかけていた。何か頭の中でちりちりとうごめくものがある。それが何であるのか、思い出せない焦燥の中、夕璃の肺は酸素を求めてあえいでいた。

「・・・あ・・・なた・・・死神?」

「ほぅ」

意外であるという風に細められる少年の目。が、その眼光にはいかなる表情も宿ってはいなかった。
一方の夕璃は、自分が言った言葉に少なからず衝撃を受けているようだった。

(死神・・・?私、どうしてこの人の事を死神なんて言ったんだろう?ただの人なのに・・・知らない、ただの人なのに・・・)

ドクンッ!!
突然夕璃の鼓動が一つ、一際大きく胸を打った。呼吸すら困難になる程の鼓動。
咄嗟に胸を抑えようとして、やっと夕璃は自分の手がいまだに手すりにしがみ付いている事に気付いた。強張り、自分の意志ですら動かせない程強く。

「今回は・・・くじけなかったようだね・・・それが、君にとって幸か不幸か、意図してなのか無意識でなのかは別として・・・」

少年が再び口を開いた。その口調は、どうでもいい事を話しているような、それでいてどこか寂しそうに聞こえた。

(知らない・・・人?私は・・・この人を・・・知ってる!?)

「とりあえず、18年ぶりの再会だね・・・久しぶり・・・というのは少し無理があるかな?」

「バカな事言わないでっ!!私、まだ16なのに、18年前になんか会える訳ないじゃないっ!!」

夕璃は下唇をぎゅっと噛み締め、悔しさに耐える。

「・・・みんなでそうやって私をバカにして・・・さぞや面白いんでしょうねっ!!」

混乱の続く中、情緒不安定なままでヒステリックに叫び続ける。
そんな夕璃の様子を見守りながら、少年は初めてその顔に表情を浮かべた。少し寂しげな笑顔。

「混乱するのも無理はないか・・・実際、僕もそうだったしね・・・だけどあえてもう一度言わせてもらうよ。僕達は18年前に会ってる。これは、久しぶりの再会なんだ」

「だからそんな訳・・・」

再び起こる胸をつく鼓動。今度は視界が左右にぶれ、世界が一瞬二つに見えた。
二つの、異なった世界。左右の視覚の差からくるような微妙な違いではない。まったく異なった世界が、明確な映像としてでなくイメージ的に夕璃の中に飛び込んでくる。
が、それも一瞬の事だった。次に気が付いた時には先程と何も変わっていない、ごく当たり前の風景が目の前に広がっていた。

「・・・何なの、今の・・・?」

夕璃が見たもの。二つの世界のうちの一つ。それは、風を切って宙を舞う自分の姿だった。
すべてのしがらみから解き放たれ、ただひたすらに高みを目指して・・・イヤ違う。ただただ自然の法則にそって下へ下へと落下してゆく姿。
そしてまるでまどろみに落ちていくかのように、徐々に視界が白く霞んでゆき・・・イメージはそこで止まっている。
混乱の続く夕璃の頭の上から、少年の声が降ってきた。

「ようこそ、『刻に支配されない世界』へ」

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