〜漣〜
―第十二章―
宙を漂っているような浮遊感があった。
周囲は見渡す限りの闇。何も見通す事のできない世界で、ただ一人きり流されていた。
不意に誰かの視線を感じる。が、何も見えない。人の気配も感じられない。
奇妙な孤独感。そしてわからない誰かに見られているという恐怖感。混乱。焦燥。
混濁としてきた意識は、やがて白い闇の中へと解け込んで・・・
「・・・あ・・・れ?」
気が付くと、夕璃は壁を見ていた。照明の釣り下がった、壁。それが自室の天井であると気付くのに、数分の思考を要した。
「私・・・どうして・・・?」
何も覚えていない。どうやって帰ってきたのかも、どうやって助かったのかも。
(助かった!?)
その一言に、襲われた時の記憶が怒涛のように噴き出してくる。悪夢のような、それでいて夢物語のような記憶。
あの時は不思議と平気だったのが、今になってみると尽きる事のないように恐怖心が心の奥底から湧いてくる。
カタカタと止まらない震えを押さえつけるようにして、夕璃は身体をキュッときつく抱きしめた。
と、コンコン、と部屋のドアが軽くノックされる。
まだ収まらない震えを落ち着けるように大きく深呼吸をし、どうぞ、と答えてから、夕璃は窓から射し込む西日に、今が夕方である事を知った。
「やっと起きたのね」
ドアを開けて現れたのは母親だった。死んだように眠りつづける娘をよほど心配していたのか、少しだけやつれて見える。
「夕璃、あなた丸一日眠り続けてたのよ」
そう言った母親は、夕璃のものらしい洗い立ての洗濯物を手にしていた。
その中に、キチンとたたまれた、見慣れない男物のYシャツが見える。
「多分・・・もう大丈夫・・・それは?」
見た事も無いシャツを自分の机の上に置く母親を見て、夕璃は聞いてみた。
「あぁ、これね・・・昨日あなたをおぶって送ってくれた男の子・・・同い年位だったかしら・・・があなたに羽織らせてくれてたのよ・・・その・・・あなたのシャツ・・・」
そこまで言って口をつぐむ。昨晩の恐怖を、できるだけ娘に思い出させまいと気を使っているのだろう。
夕璃はふぅっ、と軽く息を吐くと、もう大丈夫である事をわかりやすく示そうと、笑顔を見せた。
「そっか。じゃ、明日にでも返しとく」
多分、先輩だと思うし、その言葉は口にはしなかった。ただでさえ心配をかけてしまったのに、更に彼氏だ恋人だと不安の材料を増やす必要も無い。
夕璃はポフッと勢いよくベッドに身を横たえ、もう少し横になってるね、とだけ言い残して軽く目を閉じた。
十分過ぎる程に睡眠をとっていたので、別にまだ眠気や疲労が残っている訳ではないが、これ以上お互いに気を使いあうもの面倒だと思っての事だ。
その辺は母親の方もわきまえているのか、じゃあ夕飯になったら呼びに来るからと言って部屋を出て行った。
人と話した事で気が落ち着いたのか、先程の震えは気付かぬうちに止まっている。
一人残された自室で、夕璃は天井を何とはなしに眺めながら昨日の事をぼんやりと考えていた。
一人カッカして巻き起こしてしまった騒動。
危ういところで助けてくれた先輩。
そして、いろいろと親身になって心配してくれている、紗江。
(結局、今日、謝れなかったな・・・)
夕璃は早く仲直りしたいな、と願いつつ、明日こそはあやまらなきゃ、と決意を新たにして再び目を閉じた。
あれだけ寝ていたはずなのに、少し落ち着いたせいか、驚くほど早く眠りにおちていった。表向きは疲れていないように見えても、やはり精神的に昨日の出来事がこたえていたのかもしれない。夕璃は無理に逆らおうとせずに、夢の世界へとその身を委ねて行った。
その時の夕璃は、もう紗江に謝る事が出来なくなっている事を、まだ知らなかった。
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<続く>